新潟県長岡市の戦災復興をテーマに、地方自治について考察します。長岡市は、昭和20(1945)年8月1日、アメリカ軍による空襲で市街地の8割が罹災しました。これは全国戦災都市115のうち、面積としては3番目の罹災割合です。一方で、昭和28(1953)年11月21日、全国戦災都市の中で最も早く復興都市計画事業の完工式を行い、「戦災復興事業」を終了させました。これらの背景から浮かび上がるのは、「新潟県長岡市はなぜ多くの罹災があったにもかかわらず、最も早く戦災復興事業を完了することができたのか?」という問いです。その答えは、「比較的被害が軽度で余力のあった新潟県庁の事務負担で早期に復興事業がスタートしたこと」、「地元での早期の合意形成が成功したこと」、「他の関連の公共事業とうまく合わせ技ができたこと」です。なかでも復興事業の一環として開催されたさまざまなイベントは、行政と市民が一丸となって市街整備を進める上で大きな役割を果たしました。その成功事例の一つが、戦災の翌年、昭和21(1946)年8月1日、2日に行われた「長岡市戦災復興祭(長岡花火大会)」です。平和への祈りを捧げるとともに、一刻も早く焼け野原を元の街に戻そうという市民の意識が醸成されたと言えます。戦災復興は70年以上前のテーマですが、「大規模な災害からの復興」という点に置き換えると、現代的な示唆が得られます。その鍵を握るのは、「災害時における外部との協力体制」「地元の協力が得られる下地づくり」「事業の組み合わせと外部資金獲得のチャンスの活用」の3点です。長岡市の事例は、災害にあった時に復興対策を考える一つのヒントになるでしょう。

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箕輪 允智教授法学部 企業法学科

  • 専門:地方自治、地方政治、行政学
  • 掲載内容は、取材当時のものです