詩は評論文などと違い、感情に任せて表現が飛躍していたり、語順が意図的に逆になっていたりなど、読み手の想像力を働かせる必要があります。例えば、萩原朔太郎という詩人の不思議な表現の作品を例にとると、ふるさとを舞台にした詩の中では、今いる林の中から、市街に通ずる道路が新しくできたことを、地元の人なのに、できた「だろう」と推測の表現をしていたり、その新しい交差点に立てば周囲を見渡しやすいはずなのに、見えにくいと言ったりするなど、おかしな箇所がいくつもあります。そこで、他の作品や本人の解説、エッセイなどを参考に読み解いてみると、同じ時期に書かれたエッセイでは、彼が好んだ郊外の林の中は、何かあればすぐにこもって夢や考えにふけって元気を取り戻す慰安の地であったのに、新しい市街ができ、道が通じて残酷に木々が切り倒されて自然が征服されていくことを、残酷で痛ましいと書いています。詩における「だろう」という推測の表現は、新しくできた道を、どうせ市街に通じているのであろうよと、認めたくないような気持ちがあったのでしょう。見渡しやすい場所を「見えにくい」と表現したのは、自分の居場所を喪失したことを示していると読み解くことができます。また、別の詩でも、今いる場所は幻想の中で、それがいつもいた場所であったのに、壊されてしまったと、痛切な喪失感を表現しています。普段、論理的には読むことのできない詩的表現に触れる機会は少ないかもしれませんが、このような試みによれば、内容を理解し、作品に近づくことができるのです。

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野呂 芳信教授文学部 日本文学文化学科

  • 専門:日本近代詩
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