東洋大学が「哲学の四聖」とする哲学者の一人である「ソクラテス」の「知」に対して、挑発的な論点を挙げてみます。私たちは、西洋哲学や古代哲学を代表するソクラテスについて、さまざまな形で知っています。しかし、現在ソクラテスについて語られていることは、誰かが語ったことであるはずです。ただ、その「誰かが語ったこと」と、「現在語られていること」が一致しているという保証はありません。なぜなら、ソクラテスは何一つ書物を残していないため、持っていた思想の実像は分からないからです。ソクラテスが考えていたとされる立場には、さまざまな反論の余地があり、多くの疑問が残ります。昨今、研究者の間では、妥当な論理によって、ソクラテスの生き方の立場が正当化されているとはあまり信じられていません。そのことを踏まえて、ソクラテスは聖人なのでしょうか? その疑問を掲げると、なぜ誤っているということを分かっていながら、ソクラテスはこのような議論を提示したのか?という別の問いが生まれます。ソクラテスを聖人とみなすことができるのは、ソクラテスが立派で規範となるような生き方をしたからではありません。「論理的に妥当な理論はどのようなものか?」「善い生き方とは、どのような生き方のことか?」という問いかけを後世の人々にも投げかけたからこそ、ソクラテスが聖人と言われるのかもしれません。みなさんも、あらゆることに対して疑問を持ってみましょう。なぜなら、私たちの「知」とは、それまで培われた既存の「知」に対して、あえて疑問を持つことによって発展してきたからです。

pf-matsuura

松浦 和也准教授文学部 哲学科

  • 専門:ギリシア哲学
  • 掲載内容は、取材当時のものです