Q.教員としてご自身の専門分野を踏まえ、「研究者として研究」することの意味とは?
「本当にわからないことは何か」へ向けて
〈文学〉というものについて、「本当にわからないことは何か」をはっきりさせ、かつその〈何か〉を、文学が持つ魅力の源として示すことのように思っています。
実証的にも理論的にも、「わからないこと」に輪郭をつけるためには、まずもって、これまでに「わかっていること」を見きわめる必要があります。次に、そこから浮かび上がった「わからないこと」のうち、文学というものの根本に関わる問いは何か、さまざまな〈知〉を駆使して考えることになります。そしておそらく、核心にある「わからないこと」を探索するなかで、文学を/で考えることの楽しみ、そのいわばプライスレスな価値を表わすことができるのだと思います。
「研究」となると、何らかの解答を与えるというイメージも強いですが、総じてよい答えはよい問いから生まれる、もう少し言えば、よい問いへと迫っていく過程がすなわちよい答えなのかもしれませんね。
Q.教員としてご自身が、研究者になった経緯をご紹介ください。
「専門家」と「研究者」と
いつ頃からかはっきりと覚えていませんが、何かの「専門家」――その道に通じ、究めている人といった感じです――になってみたいという、漠然とした気持ちを抱いていました。フィクション全般や哲学思想に関心があったので、大学は文学部を志望し、そこから「専門家」=「研究者」というほどのイメージを持って、大学院への進学を考えるようになりました。大学院時代の過ごし方は、多くの人たちと同じだと思います。その時々に必要なこととの両立をはかりながら、修士論文・博士論文の完成を目標に、ひたすら論文を書き、発表していました。博士論文をまとめていくあたりから、学術振興会特別研究員や大学教員といった研究職への応募を始め、博士学位を取得後、前者の採用を経て大学教員となりました。この過程のどこかで「研究者」になったはずなのですが、一方、自分がかつて思い描いた「専門家」には、残念ながらほど遠いように感じています。
Q.教員としてご自身のご専門分野について、現在までにどんなテーマを研究されているのかご紹介ください。
小説というフィクションについて、幅広く、奥深く
大学院で研究対象としたのは、大正末から昭和戦前・戦後期に活動した小説家横光利一です。なかば揶揄混じりに「文学の神様」とも称された横光の著述は、日本の近代文学・思想に関わる諸課題を良くも悪くも集約するような側面があって、その研究に正面から取り組んだ時間は現在に至る自分の基礎となっています。
一連の横光利一研究を博士論文にまとめた後は、近現代小説の理論的分析、思想的考察を主たるテーマとしています。これまでに取り上げたのは、近代では夏目漱石、森鷗外、芥川龍之介、太宰治など、現代では村上春樹、奥泉光、古川日出男、伊坂幸太郎などの諸作品です。それぞれの作品が持つ構造や表現に即して、たとえば、小説というフィクションはいかなる形で生成、存在しているのか、私たちの社会に対して個々の小説はどのような意味を提示しているのか、といった問題を検討しています。
また、昭和戦前・戦中期の文芸・社会批評や出版・編集活動に関する考察、当時試みられた日本文学の〈国際化〉(対外文化紹介としての翻訳出版)の検証なども、大学院での研究を起点に展開したものです。
加えて、最近では〈文学と音楽〉をテーマとする研究に取り組んでいます。小説ほか虚構世界に表象された音楽へ着目しながら、フィクション(の言葉)とはいったい何なのか、理論的な角度から問いをめぐらせています。
Q.研究者として、つらかったことや、嬉しかったことは?
無力感とご褒美と
研究していてつらく感じるのは、ひとつの論文作成に取り組むたび、必ずと言ってよいほど、自分の力の限界や無知無能ぶりを突きつけられることです。図書館の書架に並ぶ無数の書物を見上げては嘆息し、大小の課題を残した生乾きの原稿を前にうなだれ、ただそれでも何かを書かねばならない焦燥感に駆られながら……、というのが長らく日常になっています。
そうしたなか、さまざまな研究者との交流や学生との語り合いの場面で、互いの関心や考えていることがつながり、重なったときは、とても嬉しく感じるものです。日々の取り組みのご褒美と言えるかもしれません。
Q.大学院で学ぶことの魅力とは?
「研究」心はみずからの内側に
普段ではなかなか見えない研究の世界に直接触れながら、非日常にも似た自由さのなかで、物事を知り、考えられることだと思います。
「研究」などと大仰に構えても、しょせん、私たち個々の人間のちっぽけないとなみに過ぎません。そんなふうに、「研究」という非日常が身近に引き寄せられる――「自分にも「研究」はできる!」――と、それぞれの内にある自由闊達な好奇心や知的な没頭力が、一気にせり上がってくるのではないでしょうか。大学院は、個々に備わる知的エネルギーのようなものを駆り立て、支える場として、魅力的だと言えます。
Q.大学院で学びを考えている受験生にメッセージを一言。
見る前に跳ぶ
〈大学院でしか得られないもの〉とは、それぞれの個性や姿勢に応じる形で生み出されるのだと思います。
それゆえ大学院への進学については、最終的に、自分自身の直感に従うほかないように感じます。慎重によく考えつつ見る前に跳ぶ、というのは明らかに矛盾したメッセージですが……。もし迷う気持ちがあるようでしたら、いったんは退いてみるのもよいかもしれません(その経験が、後にあらためて進学を志すことにつながる場合もあるものです)。
プロフィール
名前:山本 亮介(やまもと りょうすけ)
経歴:
現在、東洋大学大学院文学研究科日本文学文化専攻 教授
博士(文学)(2004年9月 早稲田大学)
早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士後期課程単位取得退学(2004年3月)
早稲田大学文学部助手、日本学術振興会特別研究員(PD)、信州大学教育学部准教授を経て、
2012年4月東洋大学
専門:日本近現代文学、文学理論、比較文学
著書:
『横光利一と小説の論理』(2008)笠間書院
『小説は環流する――漱石と鷗外、フィクションと音楽』(2018)水声社、ほかhttp://ris.toyo.ac.jp/profile/ja.f6acabc938306d1808df31a2a953493a.html
掲載されている内容は2022年9月現在のものです。
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