愛媛県出身。済美高等学校を経て、東洋大学に進学し硬式野球部に所属。2015年に高校の同級生、前田裕太さんとお笑いコンビ「ティモンディ」を結成。2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では仁田忠常役を演じるなど、俳優としても活躍。同年、プロ野球独立リーグ、ルートインBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスに入団。2季目の今年、投手として一層の飛躍が期待される。
「やればできる!」オレンジ色のジャケット姿でお馴染みのお笑い芸人ティモンディの高岸さん。近年では俳優として、また、独立リーグの投手としても、さらに活躍の場を広げています。母校の白山キャンパスで、プロ野球選手を目指した子ども時代から現在のご活躍までを話していただきました。高岸さんの「応援」に込める哲学に迫ります。
── 芸人、俳優、そして2022年からは独立リーグの野球選手として幅広くご活躍中です。東洋大学白山キャンパスを訪ねるのは久しぶりとのことですね。
卒業して以来ですから8年ぶりです。テストを受けた8号館や授業が多くあった1号館など、とても懐かしいです。自分にとって大きな転機となった4年間でしたから、いろいろな感情が蘇ってきます。
学食も思い出深いですね。当時、東洋大学の学食は日本一おいしいと聞いていました。大きなグリルチキンが載ったご飯が500円で食べられたし、野球部だと分かると超大盛りにしてくれて。
── もともとプロ野球選手を目指していらしたそうですが、野球に親しんだのは小さい頃からですか?
学校の運動会やイベントなど、みんなで一緒に何かやるのが大好きな子どもでした。チームスポーツは何をやっても楽しい。その中でたまたま出会ったのが野球でした。小学3年生の時に地元のチームに誘われて入りました。いろいろなポジションを経験し、4年生に上がるとピッチャーになりました。「ピッチャーってかっこいい。自分はピッチャーとしてプロ野球に行きたい」。その時に将来の夢が決まりました。
中学に上がると軟式野球のクラブチームに所属しました。中学生の野球は小学生とは違い、勝負の野球です。下手だと試合には出られません。でも練習するほど球速も技術も伸びていくのを実感し、それならより練習の厳しい高校に進もうと考えました。そこで知ったのが済美高校でした。
── 済美高校は野球の名門。入学後はどんな日々でしたか?
当時の野球部は、練習して片付けなどを終えて、寮に戻るのは深夜。朝は6時には起きてグラウンドに向かいます。言葉もすごい。「はい」が「アルァ!」、「おはようございます」は「アディディディース!」みたいな。初めは何をしゃべっているのか全く分からない。すごいところに来ちゃったなぁと。ティモンディで相方となる前田裕太も野球部。入寮初日に出会って仲良くなりました。
2年目からはレギュラーになり、野手や投手をしていました。甲子園でヒーローになり、ドラフト1位で指名されてプロ野球選手になる。それだけを考えた高校時代でしたね。
── しかし、地方大会で敗退し、甲子園出場は叶いませんでした。
甲子園で活躍できなかった自分が高卒でプロになるには、ドラフトで下位指名か育成選手の指名を受けるしかありません。けれど高校の野球部監督は「行かせたい大学がある。そこでドラフト1位を目指してはどうか」と。それが東洋大学でした。鶴ヶ島のグラウンドでの練習会に参加し、当時の監督にもとりたいと言っていただけて入学を決めました。
入った野球部では衝撃を受けました。当時、全日本大学野球選手権大会で東洋大学は2連覇中。球速150㎞とか自在な変化球とか、とんでもない投手も多いすごいチームでした。自分はいかに小さな世界で野球をやってきたのかと思い知らされましたね。
そこに追いつき、プロ選手になるにはもっと練習しなければと、どんどん自分を追い込んでいきました。全体練習の後に自主的にピッチング100球とか走り込み100本とか。必死でした。
野球が楽しくできないという気持ちを初めて経験しました。そして肩の故障とイップス※を起こします。やがてウォーミングアップで投げることすらできなくなり、仕方なく裏方になったのは大学3年の時でした。
── 子どもの頃からの夢を断念された。辛い体験だったと思います。
そうですね。学年に5人ほどの特待生だったのに全く戦力になっていない。特待生の辞退を監督に相談すると「それならば、残る1年間は学びを全うしなさい」と言ってくださいました。それできっぱりと野球を辞めて、アルバイトで授業料を稼ぎながら、卒業を迎えることができました。
その間、これからの自分にできることは何なのかずいぶん考えました。野球部で初めて裏方に回った時に気付いたのは、表舞台に出ない彼らにどんなに強くサポートされていたかということでした。
支える人、応援する人がいることが、どれほど力を与えてくれることか。応援の持つパワーのすごさを理解しました。
── “応援”と芸人の道はどのように結びついたのですか?
きっかけは東日本大震災です。被災地を支援するサンドウィッチマンさんの活動に感動しました。「芸人さんって、こんなにも人々に元気と勇気を与えられる職業なんだ。芸人になって人を応援したい!」と。
憧れたサンドウィッチマンさんのお2人は高校の同級生同士で部活仲間だったと知り、高校の野球部で親しかった前田に声をかけました。
前田がなぜ受けてくれたのか今でも不思議です。別の大学で弁護士を目指していたのですが、もちかけるとすんなり乗ってくれました。「面白そうだね。ロースクールに通いながら3年くらいやってみてもいいよ」と。そこから芸人としての活動が始まりました。
── 今の「やればできる!」の応援スタイルはいつ頃からですか?
最初の1、2年はなんとなく漫才らしいことをやっていましたが、上手くいかない。そんな時に相方が「なぜ芸人をやるのか原点に返ろう」と言ったんです。「お前は応援することに集中してくれ。あとはオレがやるから」と。それでライブ会場でお客さんの夢を聞き、応援することを始めました。実は「やればできる!」は母校の済美高校の校訓なんです。
それからは、どうしたら相手を元気にできるかだけを考えてやっています。服装も普段から、人を元気にするビタミンカラーのオレンジ一択です!
── 俳優としてNHK大河ドラマでの演技が注目され、独立リーグへはトライアウトで入団されました。
俳優は予想だにしないオファーでした。でも一芸人が別ジャンルにチャレンジすることも、人を元気づける応援になるのではないかと思ったのです。野球もそう。現役生活から10年離れていてもチャレンジはできる。異なるジャンルの仕事をどう切り替えるのかとよく聞かれます。でも自分にとっては全てが“応援”の一刀流なんです。どれだけ本気でトライし、人々を鼓舞するメッセージを送れるかという1つの道です。
これからも地球上の全ての人を全力で応援し続けていきます。応援の力がその人の人生をきっと豊かにすると信じていますから。