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硬式野球部 創部100周年
数多くのプロ・社会人野球選手、
指導者を輩出してきた
硬式野球部が創部100周年を迎えました。
群雄割拠の東都大学野球リーグ戦で
輝かしい実績を誇る過去、現在、
そして未来を、5人のキーマンが熱く語ります。

- 今から100年前、当時の専門学部文化学科の学生たちが中心となって創部した硬式野球部。初年度は非公認でしたが、翌年(1923年)には学長に承認され、正式に部としての活動がスタートしました。東都リーグには1940年に加盟。初めて1部に昇格したのは1962年のことでした。
東洋大学硬式野球部の主な記録
東洋大学出身 現役プロ野球選手(入団年:球団名)
- 大野 奨太
- (2009年:日本ハム→中日)
- 鈴木 大地
- (2012年:ロッテ→楽天)
- 小田 裕也
- (2015年:オリックス)
- 原 樹理
- (2016年:ヤクルト)
- 上茶谷大河
- (2019年:DeNA)
- 甲斐野 央
- (2019年:ソフトバンク)
- 梅津 晃大
- (2019年:中日)
- 中川 圭太
- (2019年:オリックス)
- 佐藤都志也
- (2020年:ロッテ)
- 藤井 聖
- (2021年:楽天)
- 村上 頌樹
- (2021年:阪神)
- 末包 昇大
- (2022年:広島)
Interview
高橋昭雄前監督 経済学部経済学科 1971年卒業
大学時代は捕手として活躍。1972年に23歳の若さで東洋大学の監督に就任し、46年にわたり母校の指揮を執り続けた名将。東都1部リーグで通算18度、全日本大学野球選手権大会で4度、明治神宮野球大会で2度の優勝を誇る。

次の世代へ想いを繋ぐ
硬式野球部創部100周年、誠におめでとうございます。私は50年にわたって「TOYO」のユニフォームを着て野球をすることができました。選手としての4年間は、東都1部リーグでプレーできましたが、1部2部入れ替え戦を3度も経験しました。いずれも勝利しましたが、あの緊張感は今も記憶に残っています。
東洋大学卒業後は日産自動車に就職し、社会人野球の道に進みましたが、1年目の秋に監督就任を打診されました。私の卒業と同時に、恩師である野本前監督が退任され、チームは低迷していたのです。一度は固辞しましたが、当時の日産自動車の監督に背中を押され、野本前監督にも励ましていただき、監督就任を決意しました。
しかし、引き継いだチームは前年のリーグ戦で2勝20敗。勝つ喜びを選手が知るまでに時間がかかりました。1年目は選手と一緒に汗をかきながら、無我夢中で練習に取り組む姿勢を正してきました。2年目からは5季連続で2位となり、優勝決定戦で負け続ける中で、選手は勝ちたい気持ちが強くなったのだと思います。悔しい経験をすることは選手にとって大切です。こうした積み重ねがあり、1976年秋季リーグで悲願の初優勝を果たしました。
この秋季リーグ前に行った遠征も印象に残っています。社会人チームの主将が率先してグラウンド整備をしていたのです。選手には「お手本にしろ」と言いました。私がチームづくりをするうえで、一つの転機になったと思います。4年生だからといって特別ではない。チーム一丸となって一生懸命取り組むことが大切なのです。
チームづくりにおいては、1年生から積極的に試合に起用していました。早い段階から経験を積むことが選手の成長に繋がりますし、選手自身が考えて取り組むよう導いてきました。ランニングや素振りといった基本であっても、一つひとつ工夫して考えながら練習する選手は成長します。
硬式野球部のスローガンは「正義感・思いやり・負けず嫌い」。ズルは絶対にしない、正直者であれ、一生懸命に、まじめに、と言い続けてきました。そして、そのうえで、打ち勝つ野球を大切にしてきました。もちろん、勝つためには守備も含めた細かい野球が必要ですが、打って勝つ試合のほうが楽しいからです。
野球は楽しいものです。今の選手も野球を楽しんでほしい。
そして近い将来、全国制覇することを期待しています。

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Roundtable
Discussion
特別鼎談 達川光男 × 松沼雅之 × 藤田明彦
受け継がれる東洋スピリット
東都リーグ加盟37年目で悲願の初優勝を成し遂げた、1976年秋。
そのときの主力メンバーだった3人が、当時の思い出を語り合いました。
高校時代よりも
はるかに厳しい練習に驚いた
東洋大学硬式野球部に入って何に驚きましたか?
- 達川
- 何より練習の厳しさ。高校時代、広島商業で厳しい練習をしていましたけど、東洋大学はそれ以上でした。寮生活は初めてだったので、部屋の隅で小さくなっていました。
- 藤田
- 松沼と僕は達川さんの一学年下です。当時の上級生は髪の毛が長いということに驚きましたね。
- 松沼
- 私は茨城の取手二高時代に木内幸男監督に指導してもらったんですが、そのときの野球部員は全部で16人。ところが大学に入ったら、全学年で80人以上もいて、すごいなと思いました。
- 達川
- 松沼はお兄さん(博久)が卒業したあとに入学してきた。お兄さんとはバッテリーを組んでいて厳しく教えてもらったので、弟にお返しをしてやろうと待ち構えとったんですが、めちゃくちゃいいボールを投げるんで「大事にせにゃいかん」と思いましたよ(笑)。
- 松沼
- ありがとうございます。
- 達川
- コントロールはいいし、球が重い。松沼が頑張って投げてくれたら優勝できると思いました。バッターで素晴らしかったのが藤田です。バットをもたせたら天才でした。
- 松沼
- 達川さんのリードは次元が違っていて、サイン通りに投げたら抑えることができました。
高橋監督によって植え付けられた
勝利への執念
- 達川
- 高橋監督はまだ20代で若くて、とにかく厳しかった。野球部に入ってすぐに「きみは将来、どうしたいんだ?」と聞かれて、「プロに行きたいです」と答えたことを覚えています。厳しく指導してもらったおかげでプロ野球に行けましたから、感謝しかないですね。
- 藤田
- 高橋監督には、勝負に対する厳しさがありました。試合に負けたあと、ものすごく練習をするんですよ。勝利に対する執念を植え付けてもらいました。
- 松沼
- 癖のある選手が好きで、とことん使う監督でした。1年生から試合に出してもらって感謝しています。
- 達川
- 高橋監督は、とにかく松沼には甘かった。松沼が頑張ってくれないと優勝できないと、わかっていましたからね。
- 松沼
- 試合でたくさん投げさせてもらいました。4年間で85試合に登板しました。
- 達川
- 当時の東都では、駒澤大学の戦力が図抜けていたね。
- 松沼
- 1年生のときは、打たれっぱなしでした。
- 達川
- 東都では、最下位になったら2部の優勝チームとの入れ替え戦がある。そうならないために、まずは目の前の相手に全力でぶつかるしかない。
- 松沼
- 第1戦で負けたら、3連投を覚悟していました。
- 達川
- 高橋監督は負けず嫌いだったけど、勝て!というのを前面に出すことはなかったね。
- 松沼
- でも、負けたら大変でしたけど(笑)。
高橋監督も20代後半、試行錯誤もあったでしょうか?
- 藤田
- 途中で生活のルールも変わりましたね。飲酒、タバコ、麻雀は禁止、上級生も丸刈りに。
- 松沼
- やりたいようにやる」と宣言して。監督自らノックバットをもって守備練習をしたおかげでエラーはほとんどなし。僕は連続無失点記録(56試合3分の2回)をつくりましたが、それはチームに守備力があったから。
- 達川
- 「やり切る!」と決めたんじゃないですか。「いつでもやめる覚悟がある」と言っていましたよ。それで、70歳まで監督をやったんだから。
- 藤田
- ブレずに指揮を執り続けたことはすごいと思います。
- 達川
- 高橋監督の教え子が47人もプロ野球に進んでいます。偉大としか言いようがない。

大学での4年間があったから
その後も活躍できた
1976年秋、創部初のリーグ優勝を飾りました。
- 達川
- 優勝が決まった試合のことはよく覚えています。平日の昼間なのに、「どうしたんじゃろか?」と思うくらい、大勢の学生が神宮球場に来てくれました。私は高校時代に全国優勝しましたが、甲子園とはまた違った雰囲気がありました。大学のほうが感動しましたね。
- 藤田
- リーグ戦の後半、故障のために練習ができませんでした。でも、優勝が決まる試合で使ってもらって、タイムリーヒットを打ったことを覚えています。
- 松沼
- 必死で投げていたせいか、試合の記憶はあまりありません。でも、打たれる気はしませんでしたね。
- 達川
- 優勝したとき、「松沼を大事にしてよかったな」と思いました(笑)。私が卒業したあと、松沼がエース、藤田がキャプテンで頑張って、1978年秋に2回目の優勝をしましたからね。4年間で松沼は何勝したん?
- 松沼
- 39勝です(東都リーグ通算勝利数歴代2位)。
- 達川
- ほんまにすごいな! 大学野球部での4年間で得たものは本当に大きかったね。
- 藤田
- 野球漬けの日々があったおかげでその後、社会人としてやっていけたんだと思います。
- 松沼
- プロ野球の練習を厳しいと感じることがなかったのは、大学時代の練習があったから。
最後に、後輩たちへのメッセージをお願いします。
- 達川
- 東洋大学で4年間、精いっぱいやれば間違いない。
- 藤田
- 大学での4年間を信じて、野球に没頭して、優勝してから卒業してほしい。
- 松沼
- 私は今、野球部のコーチをしています。大学野球はゴールではなく、卒業してからの先は長い。いつか花開くことがあるかもしれない。うまくいかないことがあっても、あきらめないこと、途中でやめないことが大切です。

- 達川光男
-
経営学部商学科 1978年卒業
大学卒業後、広島東洋カープに入団。正捕手として3度の優勝に貢献する。引退後は広島東洋カープの監督をはじめ、プロ野球チームの指導者として活躍。現在は、野球解説者として活動。

- 松沼雅之
-
経営学部商学科 1979年卒業
大学卒業後、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に入団。1980年代の西武黄金時代を支えた名投手。引退後は野球解説者・社会人チームのコーチを務め、現在は東洋大学のコーチとして活動。

- 藤田明彦
-
経営学部商学科 1979年卒業
大学卒業後は東芝府中で選手・コーチ・監督として活躍。母校である東洋大学附属姫路高等学校の監督も務め、チームを5回甲子園に導いた。多くの選手を育成し、今年3月の選抜高等学校野球大会を最後に勇退した名将。
Interview
杉本泰彦監督 法学部経営法学科 1983年卒業

新たな時代を築く
2018年から母校の監督を務めています。就任時も今も思うのは、高橋監督が築かれた歴史や重みは超えることはできない。積み重ねてこられた野球を検証し、多くの良い部分を東洋大学の伝統として、次世代に繋いでいく。それが、教え子の一人でもある私の役割だと考えています。
高橋監督が言い続けてこられたのは、「まじめに一生懸命取り組みなさい。ズルい野球をしてはいけない」ということです。人として一番大切なことであり、この良き伝統は、私も徹底しています。
私が新たに取り入れたのは、選手との個人面談です。年3回、選手には「自分はどうなりたいのか。そのためにどうするのか」といったコミットメントシートを事前に書かせて面談します。シートに書かれていることを見れば、選手の資質や考え方がわかりますし、内容が抽象的であれば「具体的にどうするんだ?」、想定問答のような内容であれば「これは本当にきみの言葉か?」と、話をします。もちろん、その後の取り組み方も一人ひとりチェックして、選手の中にギャップがあればフォローします。
私は選手に多くを語りません。個々が主体的に何をすべきか、考えてほしいのです。その積み重ねが、社会に出たときに活かされます。このような考え方・手法は、会社の管理職を経験したことで身につきました。選手に求めるものは大きくなりますが、強さだけでなく品格も兼ね備えたチームでありたいと思っています。
現在のチームは、高橋監督の記録である1部リーグ5連覇も夢ではないと思います。ただ、〝野球は結果がすべて〟という方もおられますが、私はそうは思いません。一番大切なのは、それまでにどう考え、どう取り組んだかというプロセス。選手の未来も見据えて、一人ひとりの夢が叶うような希望のあるチームにしたいと考えています。
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