Alumni Report 東京2025デフリンピック大会日本代表 門脇 翠
写真(上下):武蔵野陸上競技場
集中しているときが一番楽しかった。
私は先天性の重度感音性難聴で、両耳に補聴器をつけて音が聞こえる程度です。
ふだんの会話では相手の口の動きや表情を見て理解し、声を出して話す「口話」という方法でコミュニケーションをとっています。幼い頃はこの口話を身につけるため、言語聴覚士の先生と毎日マンツーマンで発音練習を重ねました。ほかの人にできて自分にできないことが悔しくて、とにかく必死に頑張っていました。
当時は自分を「障害者」と意識することはなく、好奇心旺盛で人と関わるのが大好きな子どもでした。スポーツも得意で、特に走ることが好きだった私は中学で陸上部に入部しました。もともとは明るい性格だったのですが、中学に入ると友達との関係性に徐々に悩むようになっていきました。私は誰とでも分け隔てなく仲良くしたいタイプでしたが、思春期を迎えて話題が複雑になるにつれ、おしゃべりの輪に入っていくのが難しくなっていきました。そのような状況もあり、好きな陸上と勉強に注力するようになりました。陸上と勉強に集中している時間は心から落ち着ける瞬間でしたし、一番楽しかったです。
高校は県立の進学校(埼玉県立蕨高等学校)に進み、将来は体育教員を目指していたので、卒業後は陸上部が強くて、保健体育の教員免許をとれる大学ということで、東洋大のライフデザイン学部健康スポーツ学科に進学しました。当時は授業(朝霞)・部活(川越)・所属サークルの活動(白山)で3キャンパスを往来しており大変でしたが、専門的な学びや周囲の支え、恵まれた環境の中で、大きく成長することができました。
今までお世話になった人たちに、デフリンピックで走る私の姿を見てほしい。“デフ陸上”の世界に足を踏み入れたのは大学1年の時。日本デフ陸上競技協会からスカウトを受けたのがきっかけでした。とはいえ当初は戸惑いもありました。デフ選手たちは主に手話で会話していて、親しくなるには新たに手話を学ぶ必要があったからです。それまで私は「耳が聞こえなくても聞こえる人と同じように何でもできるようになりたい」と努力してきたので、「手話をマスターしてほしい」と言われた時は自分の努力を否定されたように感じました。もちろん今はそんなふうには思っていません。多様な人とつながるためには、言葉の手段は多いほど良いと気づいたからです。
大学在学中には「世界デフ陸上競技選手権」や「デフリンピック」の日本代表に選ばれましたが、当時は素直に喜べず陸上部の先輩たちにも報告することを躊躇していました。「耳が聞こえないから特別だ」と思われるのが嫌だったのかもしれません。ホント負けず嫌いにもほどがありますよね(笑)。
その後、大学院を経て競技から離れていましたが、2024年に現役復帰しました。2022年のブラジル大会にて女子短距離種目に日本人選手がいなかったので、「次の大会は東京。私が出るしかない」と決意しました。30代での挑戦でしたが、混合4×400mリレーと女子4×100mリレーの出場が決まりました。メダルよりも、支えてくれた人たちへ走る姿で恩返ししたい。それが今の私の願いです。
障害者、健常者関係なく、お互いに補い合い支え合う社会を目指すには何をすべきか?デフリンピックがそうした社会課題を考えるきっかけになってくれるとうれしいですね。