2021年10月16日研究発表例会 発表報告

哲学館主井上円了文学士静岡巡講の詳解

出野尚紀 客員研究員 

 井上円了が明治二三年十一月から十二月にかけておこなった巡回講演のなかで、始めの静岡県の部分を、『館主巡回日記』と『静岡大務新聞』を典拠に再構成した。この巡講は、日本の研究状況と欧米のそれとの違いを実体験してきた円了が、哲学館拡張の趣旨を伝えるとともに、そのための寄付金を集めるというものであった。

円了は、途中の大磯町教育会での講演後、宿泊して英気を養ってから、静岡市にやって来た。宿泊した大東館は親王が泊まるような格をもっていた。時任静岡県知事や蜂屋師範学校長、小栗徳川慶喜家家扶らに寄付を依頼した後、師範学校と教覚寺において講演をした。『静岡大務新聞』には、記事として動静だけでなく師範学校での講演速記が載せられ、「哲学館ニ専門科ヲ設クル趣意」が別紙付録として付けられた。

 講演は前年六月まで一年間の欧米視察の際に感じたことから説き始める。欧米の大学や学者に対して感じたことは、自国への誇りと国風の確立、苦労を厭わぬ知識欲である。だから日本の大学も同じように日本の独自性を発揮し、欧米に伍するまでに至ることを目指すべきである。しかし、日本の状況として、明治以前にはなかった学術分野が理化学を中心に存することは確かであり、それらについては欧米の後追いが続くことは仕方がないが、逆に、漢文資料の所蔵と解読のような欧米の先に立てることが容易な分野もある。現在は欧米に留学生を輩出するばかりだが、これらの分野で留学生を受け入れられるようにならなければならない。そうでなければ日本学の最先端すら欧米に持って行かれてしまう。また、日本の精神性を知らしめる手段が流出した美術品だけに止まっていることも問題であり、日本思想を欧米に伝えなければならない。だから日本風をもつ漢字文化圏の学術を研究する大学へと哲学館を改良しようと考え、学制を変更した。ぜひとも日本を学問的後進国から先進国へと変える手助けをしてほしい。

 以上のようなことを静岡師範学校などで演説した後、静岡市を発ち、小川村、掛川町、浜松町で講演をして、愛知県豊橋町に向かった。

 円了は「巡遊」という言葉を使うが、静岡藩時代に重要な土地で講演をしただけで、県内各地に足を伸ばしたわけではない。名士たちに援助を求めたが、寄付金を払った人は、『館主巡回日記』で面会者として挙げられている人びとの十分の一に満たず、地域での取りまとめを依頼した仲介者の数よりも少ない。勝海舟の影響の元に始まった事業だが、寄付金を集めるという喫緊の目的を果たすには不十分であった。しかし、記事に「哲学館主井上円了文学士」などと繰り返し載っているので、円了の名を知らしめるには効果的であったと考える。

 

 

『宗鏡録』所引「観和尚十種道場観」について
―新羅華厳文献との関連―

佐藤 厚 客員研究員 

 新羅時代は朝鮮半島で仏教が盛んだった時代である。元暁(617 - 686)や義相(625-702)など、中国仏教に影響を与えた僧侶も多い。ただ、新羅仏教研究の大きな問題は、残存する文献が少ないことである。朝鮮半島の僧侶だけの著作を収録した『韓国仏教全書』の中、新羅仏教文献 は、18名分59種である。これは本来存在した書物に比べると少ない。そうした中、近年、新羅仏教文献の発見、研究が進められている。今回の発表もそうした新羅仏教文献探索の試みである。

10世紀の延寿が著わした『宗鏡録』巻27に「観和尚云く」として、十種の如来が十種の道場に坐して十種の法門を説く教説(以下「十種道場観」)が引用される。それは次のようなものである。①金剛如来が金剛道場で金剛法門を説く、②解脱如来が無著道場で無著法門を説く、③般若如来が無住道場で無住法門を説く、④摩訶衍如来が無礙道場で無礙法門を説く、⑤菩提如来が無相道場で無相法門を説く、⑥実際如来が無際道場で実際法門を説く、⑦真如如来が常住道場で常住法門を説く、⑧法界如来が法界道場で法界法門を説く、⑨法性如来が法性道場で法性法門を説く、⑩涅槃如来が寂滅道場で寂滅法門を説く。

内容からこれは華厳思想の教説である。通常、華厳で「観和尚」といえば華厳宗第四祖とされる澄観(738-839)が予想されるが、この「十種道場観」は現存の澄観の著作には見当たらない。そして内容を検討すると新羅華厳との関係がみられる。①新羅華厳の代表的文献である『一乗法界図』が「経曰」として引用する文と一致する文が出ること。これは他の文献には見られず、作者が『一乗法界図』を見ていた可能性が考えられる。②「相即相融」という言葉を使うこと。これは新羅華厳の文献だけに見られる表現である。③維摩経が背景にあると思われる無住法の重視である。新羅華厳は無住法を重視する。

以上から、「十種道場観」と新羅華厳と関連を予想することができる。それではこれをすぐに新羅文献と認めてよいであろうか。これについて報告者は現在二つの可能性を考えている。一つは、「観和尚」とは中国華厳宗の澄観であり、従来知られていない著作からの引用である。しかし、澄観の著作ではあるものの、間接的に新羅華厳の影響が見て取れる、ということ。もう一つは、「観和尚」とは澄観とは別の人物であり、新羅の華厳を学んだ人物の可能性である。

これは他の証拠が出てこない限り、可能性のレベルでしか論じることはできないが、新羅華厳文献の発見のための試論としてしたい。

 


日韓世代共感孝文化運動の可能性に関する研究

                                                                                  金 得永 客員研究員 

研究目的は日韓、日韓の世代共感孝文化運動の可能性を史的点から探ることである。日韓の孝文化は儒仏教の影響で今も多くのことを共有している。また、大陸から儒仏教流入以前から口傳にわってきた孝文化もいている。家庭で孝、孝行、孝道、孝子文化があることがその一例である。神社と祠堂、墓祭文化、祝日の祖先墓地参拝、家庭祭祀を過ごす風習もっている。韓民族の孝文化の歷史は古朝鮮の孝文化遺跡からも見つけられる。東夷族古朝鮮の墓葬法、熊トテムと積石塚、古朝鮮の主舞台だった州と遼西の支石墓もその形成年代は古い。韓民族の孝の起源は、上古時代の古記によると桓、倍達、古朝鮮からその起源を探している。桓の時代から始まった「桓因五訓」と古朝鮮檀君王儉の「八條敎」が北東アジアの思想家孔子によって承され、儒敎の仁孝思想で六經に集成されたことをすでによく知られた事である。

古朝鮮以の「孝經」と仏教の「仏説大報父母恩重經」はいまにも影響されているようだ。

韓国の世代共感孝文化運動の胎動は、1980年代以降、民主政府に政権交代、2000年前後の金大中民主政権に移譲され、既存の秩序が交替され、伝統文化も急激な変化と問題を量産することになる。既存の権威主義文化を解体しながら正当な権威まで解体され、多くの社会問題が発生することになる。権威的な儒教文化の中、廉恥と謙讓を含む人間の行動の根本的な孝も無視され消えつつある。この過程で、ボトムアップによる孝文化運動が胎動することになる。郷土学者である崔種秀(前果川文化院長)の孝文化活動が果川市と全国そして世界に広がりを図っている。彼を中心に文化芸術家、知識人、市民運動家たちが行動しながら孝行都市へと変化させている。2009年に韓国孝文化センターが開設され、世代共感孝文化運動を進めている。

日韓孝文化運動推進の可能性は、古代の史遺物遺跡の中で再見が可能である。日本書紀と古事紀に出てきた孝子王人博士の韓日文化遺跡、高句麗最後の王子若光王の高麗神社と「聖天院」、江時代和歌山県李梅溪の「父母狀」、現在は「故の家」などで孝文化の統を見つけることができる。

日韓の優れた孝行文化を掘し、世界に知らせることも孝の実践であることである。孝に連する遺物遺跡、記、語りがれているれた両国の孝行文化を承する共同調査究が先行である。自然と他人との共生する人間の本性を見する孝仁、親孝行の文化を在化する史、哲、宗プログラムの啓が必要である。2021年現在、人間の善な行動の化は、境を越え、世代を超えて共感する孝文化運動の可能性を共有することを期待する。