本校の母体である東洋大学の創立者井上円了博士は、大正8(1919)年の6月6日に、中国の大連において講演中に倒れて逝去しました。 学祖祭は、この命日に、創立の原点を振り返るために開催しているものです。
開催場所は東京都中野区哲学堂公園の向かいの蓮華寺で、法要と井上円了に関する講話を行っています。
これにちなみ、東洋大学の附属校である本校は6月6日(木)は学校休業日となりますのでお知らせいたします。
井上円了について
東洋大学の創立者・井上円了は、安政5(1858)年に新潟県越路町の慈光寺に生まれました。10歳の時に明治維新(1868年)を体験して、その年から漢学を学び、次に洋学校で洋学などを学びました。
その後、京都の東本願寺(真宗大谷派)で給費生に選ばれて、創立間もない東京大学に入学しました。ここで、ギリシャを発祥の地とする「哲学」と出会い、「真理は哲学にある」ことを確信しました。哲学とは「智慧を愛し求める」(philosophy)学問ですが、井上円了は新たな時代に対応するために、哲学による日本人の新たな「ものの見方・考え方」が必要と考え、明治20(1887)年に29歳の若さで哲学館を創立しました。明治時代は日本が「世界と出会った時」でした。井上円了は、哲学による個々人の「思想の練磨」により、日本の近代化を進めようとしたのでした。しかし、哲学館は、台風による新校舎の倒壊、類焼による校舎の全焼、哲学館事件による文部省の特典剥奪など、多くの災難に襲われました。その時、井上円了は有力者や宗教教団に頼らず、全国を巡回講演して民衆の支援(寄付)を求める道を選択しました。こうして明治39(1906)年に哲学館は東洋大学となりましたが、井上円了はそれを見届けるかのように大学から引退し、一人の教育者に戻っていきます。
第一次世界大戦の終わった翌年の大正8(1919)年5月、井上円了は中国各地を巡回講演する旅に出発しました。上海を皮切りに蘇州、漢口の各地で講演し、北京、天津、営口を経て大連に向かいます。そして6月5日の夜、大連の西本願寺幼稚園での講演中に脳溢血で倒れ、翌6日永遠の眠りにつきました。享年61歳。今年は106回忌になります。