INDEX

  1. 避難情報のあり方や防災教育など、大災害を乗り越えるために重要な「ソフト」の防災
  2. 本当に正しい防災とは?命を守るために必要な、行政や専門家に依存しない「主体的な防災」
  3. 災害大国・日本でめざす、個人と行政がひとつになる理想の防災

INTERVIEWEE

及川 康

OIKAWA Yasushi

東洋大学 理工学部都市環境デザイン学科 教授
博士(工学)。専門分野:災害社会工学。群馬大学大学院卒業後、長岡技術科学大学、高松工業高等専門学校、群馬大学工学部などを経て、2019年4月より現職。著書に『「思い込みの防災」からの脱却 命を守る! 行政と住民のパラダイム・チェンジ』(ベストブック)。

避難情報のあり方や防災教育など、大災害を乗り越えるために重要な「ソフト」の防災



――まず、先生のご研究内容について教えてください。

防災の研究をしています。防災という研究領域には数多くのアプローチの仕方がありますが、それらは大きく「ハード」と「ソフト」の二つに分けられます。災害をもたらす自然現象を土木構造物などによってどのように制御できるかを研究するのがハード面。それに対して、避難情報のあり方や防災教育など災害への社会的な対応を考えるのがソフト面です。私の専門領域は「災害社会工学」と呼ばれ、ソフト面の領域に当たります。ただし、ハード面・ソフト面の両方の専門的知見をうまく実践適用するための方法論を探求する学問領域、という見方もできます。

防災において、ハード面にしっかりと取り組めばソフト面での対応は必要ないのではないかという声もあります。しかし、ハード面で可能な限りを尽くしても、その対策を超えて発生するコントロール不可能な事態こそが災害。東日本大震災や阪神淡路大震災はまさにその例です。人命を守るためには社会的な対応策を考えるソフトがいかに重要か、私たちは過去の災害から学んできました。仮にハードが未熟だったとしても、ソフト面がしっかりと機能していれば人的被害を最小限にすることができることを、そして物理的な面と社会的な面のそれぞれから有効なアプローチがあるということを、災害社会工学を通して世の中にしっかりと根付かせていく必要があります。
 

本当に正しい防災とは?命を守るために必要な、行政や専門家に依存しない「主体的な防災」



――先生の著書タイトルに「思い込みの防災」という言葉があります。日本の防災において、具体的にはどのような思い込みがあるのでしょうか?

思い込みという言葉には、自分への戒めや反省の念もあるんです。私が研究をはじめた当初は、「防災大国と呼ばれる日本なら、さまざまな科学技術によって災害を克服することができるんだ」と思い込んでいたような気がします。おそらく多くの人々もそのような思い込みを持っており、「行政や専門家の言うことを聞いていれば大丈夫」と思ってしまっているところがあるのではないでしょうか。そのため、防災がうまくいかず被害が拡大した場合には専門家側の責任だと感じ、彼らへの批判へとつながってしまいがちです。

災害が起こるたびに繰り返されるこの様子を見て、私は「行政や専門家にまかせて、それに従っておけば災害を乗り越えることができるはずだ」という「災害制御可能感」に悪い意味で支配されているように感じます。しかし、前述したように「制御できない事態」こそが災害です。専門家や行政の努力で災害を制御できるという思い込みが、個人と行政のあいだに分断を生んでしまっている。これを脱却したいというのが私の考えです。命を守るためには、対立して責任を押し付けあうのではなく、住民も行政も一丸となって自然災害に立ち向かい行動したいですね。予測できない自然災害に対して、誰かが責任をとることは不可能だからです。責任の所在を議論することよりも、いかに被害を抑えられるか、それぞれの立場の一人ひとりがよく考え、手を携えながら備えていくべきだと思います。

よりよい防災のためには、行政や専門家に個人が依存している、今の歪んだ関係性を健全化していく必要があります。そのために私が唱えたのが「避難情報廃止論」です。避難情報とは、災害時に市町村から発令される「避難指示」や「高齢者等避難」の指示のことです。過激なことを言っていると思われそうですが、ここで私が本当に訴えたいのは「避難情報の不要性」ではなく「避難情報を適切に理解して大切にできる社会でありたい」という思いです。
避難情報は大切です。しかし、現在のように「避難情報が出ていないから大丈夫」というような「安心を保障する情報」としての捉え方は危険です。避難情報は万が一の場合に備えて出す情報です。実際に避難するほどの被害がなかったとしても、行政を批判するのではなく「何も起こらなくてよかったね」と思えるような、正しい避難情報のあり方をめざしたいのです。

同様の問題意識から、ハザードマップや津波情報にも工夫の余地があることが指摘されています。洪水による浸水の可能性があるエリアが明確に色で塗り分けられていると、「私の家は色が塗られていないから安心だ!」などと、その境界線に一喜一憂してしまいがちです。しかし、その塗り分けはあくまでもひとつのシナリオに過ぎず、安全を保障してくれるものではありません。あえて境界線を曖昧に示すことで防災情報の本質をダイレクトに伝え、自分の頭で防災について考える姿勢を促すといった工夫は、とても効果的だと思います。実際、表現方法をあえて曖昧にするという工夫は他にも導入され始めており、東日本大震災後には津波情報の表現も見直されました。震災前までは「3メートル」「5メートル」などと具体的な数値を用い、8段階で津波の高さを伝えていました。しかし、震災後には、巨大地震の詳細情報が確定するまでに一刻も早い避難が必要なとき、ひとまず「津波が到達する」「高い津波が来る」「巨大な津波が来る」という、あえて曖昧な表現を用いた3段階で発表する方法へと改められました。この変更の背景には、「何メートル以上にいれば安全だ」という誤った安心感を与えないようにする意図があります。こうすることで、情報への過信を防ぎ、一人ひとりが最善の行動とは何なのかを自分でよく考えて行動に移すようになるのではないか、という理念に基づいた工夫だったのです。

――一人ひとりが緊張感を持って防災について考える姿勢を作るということですね。

行政や専門家に頼りきりではなく、他人任せでもない防災、私はこれを「主体的な防災」と呼んでいます。誤解されがちですが、「主体的な防災」は「能動的な防災」とは異なります。私たちはしばしば、能動的=自分の意志で動くこと=主体的、というふうに捉えがちです。しかし、能動的に動くことは、ともすればすべての責任を自分に引き寄せてしまう危険な考え方にもなり得ます。これに対して主体的な防災というのは、有事の際に反射的に行動できる身体を作っておく、いわば「身ぶりとしての防災」の習慣形成という考え方です。何も特別なことではありません。災害時に私たちは、不十分な証拠をもとにして行動しなければなりません。人任せにして思考停止に陥ったり、逆にあれやこれやと慎重に吟味してから意志決定したりするようでは、間に合わないかもしれません。いざという時にとるべき行動を身体に染み込ませておき、種々のシグナルに反応して防災行動が反射的に自然と出てくる、そんな「身ぶり」をあらかじめ研ぎ澄ませて更新し続けること、それが「主体的な防災」の目指す姿です。

主体的な防災を世間に浸透させるには、国家レベルでの議論や対応が必要です。現在行われている防災庁設置に向けた協議においてもポイントとなる考え方でもあります。多くの国民が未だ強固な「災害制御可能感」に縛られて、行政や専門家に頼りきりで、他人任せの態度のままであるならば、防災庁を作ったとしても単なる苦情受付窓口のようになってしまうかもしれません。大規模災害で人的被害を最小限に食い止めるという本来の目的を達成するために、災害制御可能感を払拭する世論形成の旗振り役としての機能を防災庁には強く期待したいです。
 

災害大国・日本でめざす、個人と行政がひとつになる理想の防災



――先生がめざす、日本の防災の未来について教えてください。

繰り返しになりますが、分断状態を改め、個人と行政がひとつになって災害に立ち向かう状態が理想と考えます。これを実現するためには他国の防災から学ぶことも大切です。例えば、防災先進国と呼ばれるキューバでは、国レベルで「自然には抗えない」という意識があり、被災時には、責任を追及するのではなくそれぞれが最善を尽くして被災者救済に努めています。「国家は国家としてできることを最大限やってくれているから、自分たちも最大限努力しよう」、という信頼関係があるのです。国家と個人が協力して防災に取り組む「チーム」のような関係であり、その中からできるだけ被災者を出さないようにしようという空気感があります。責任の所在を重んじる日本の風潮は、世界的に見ると実は少し独特なものです。困っている人がいたら助ける、危機が迫ってきたら逃げる、リスクに備える、大切な人のことを想う、そこに理由や責任論を持ち込む必要なんていったいどこにあるというのでしょうか。皆さんにも改めて考えてみてほしいです。

国民と行政の関係性を適切なものに変えていくことは、福祉や教育など防災以外の問題にも良い影響を及ぼすでしょう。災害大国である日本において、防災は全国共通の大きなテーマです。防災を考えることは、国民と行政間のコミュニケーションを見つめなおす大きなきっかけにもなるはずです。
 

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