井上円了の教育理念

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- 形をとったため、一時は世間から誤解されたこともあった。
このように苦労して集めた寄付金の総額は、八千二百五十余円であった。
ところで、この少し前から同志社の新島襄も大学設立を期して、募金活動を展開してい
た。彼は明治二十三年一月、募金に歩いている途中で病死し(四十八歳) 、その目で夢の実
現を見ることはなかった。このときの後援者と寄付金額が新聞に公表されているが、政界
や実業界からの寄付が多く、例えば大隈重信から千円、渋沢栄一(実業家)から六千円、岩
崎弥之助(三菱会社社長)から五千円など、十一人で三万一千円が集まっている。哲学館の
場合と比較すると、資金募集の方法は根本的に異なっている。井上円了は創立以来の方針
として、あくまでも民衆を基盤とした学校づくりを貫いていて、哲学館では教育対象もそ
れを支える後援者も日本全国の民衆であるという認識のもとに行動していたのである。
民衆に哲学を
井上円了の全国巡講には、単なる募金活動以上の意味があった。哲学館への協力を得る
ためには、まず哲学館の教育や哲学について理解してもらわなければならない。したがっ
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