井上円了の教育理念

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- そこも手狭な状態になっていた。そこで、場所も本郷区駒込蓬萊町(現在の文京区向丘)に移
転し、独立した校舎を建築することになった。着工は帰国から二か月足らずの八月一日、
完成予定は九月十五日であった。新築にあたって彼は特別寄付を依頼し、総額四千数百円 円を受けている。
の費用のうち大口の寄付としては東西両本願寺からそれぞれ千円ずつ、また勝海舟から百
勝海舟については改めて述べるまでもないが、彼には逸子という娘があり、彼女はのち
の男爵、目賀田種太郎と結婚していた。この夫婦が明治十九年十一月に井上円了が結婚す
るときの仲人をひきうけたという関係で、井上円了は勝海舟と出会ったのである。目賀田
夫人によれば、勝海舟のほうでも彼の噂を耳にしていて、関心を持っていたようである。
Ⅰ 教育理念の形成過程
あるとき目賀田とともに彼に会って、帰ってから「あんなに若い人であったか」と感心し
たという。この出会いは、後につぎのような形で伝えられている。
勝海舟は井上円了を見て、最初に「おまえは若いな」といった。そして、井上円了が哲
学館について説明すると、 「やることがよければ必ずできると思うのは間違いだ。いくら
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よい仕事でも、金がなくてはできない。幕府が倒れたのも金がなかったからだ。おまえさ
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