井上円了の教育理念

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- した明治十四年に独立した。ちなみに、この段階ではまだ十分に科目が定まっておらず、
『東京大学百年史』によると、このとき大学は文部省に哲学科の授業内容について照会し
ているが、その回答では哲学(当時は純正哲学と呼んでいた)だけでなく、心理学、道義学、論 井上円了は当時の哲学科についてこう語っている。
理学を含み、哲学についてはその概要程度のレベルで教授することとなっていた。
「私が大学にいたころは、哲学科の学生は私一人で、教師が十何人とありました。それ
ですから、私が欠席すると十何人の教師がみな休まなければならぬというしだいで、各教
師からは〝君が休むときは前もって案内をしておいてくれ〟といわれました」
これでわかるように、東京大学では多数の教師のもとで少数の学生が教育されていた。
Ⅰ 教育理念の形成過程
これは東京大学が、国家の近代化に役立つ専門家を一日も早く養成するための機関と考え られていたからである。
政府は東京大学のこの性格をより明確にするために、明治十九年に「帝国大学令」を公
布し、東京大学を帝国大学と改めた。この法律の特色は、一般的な「大学」に関するもの
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ではなく、ただ帝国大学についてのみ定めたところにあった。ここで政府は、帝国大学の
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