井上円了の教育理念

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- ロッパ的な近代教育制度が導入されたのは、明治五年に公布された「学制」が最初であっ
た。これは小学校を人口六百人につき一校、中学校を人口十三万人につき一校、大学を全 実施することは不可能であった。
国に八校設置するという内容であったが、維新政府の財政基盤が弱かったため、このまま
しかし、翌年、政府は「学制二編追加」という規定を設けて、高等教育機関である大学
について具体化の方向を打ち出した。この規定によって「専門学校」が設置されたが、こ
れは日本の近代化に必要な「百般の工芸技術および天文窮理医療法律経済等」を外国人の
教師により洋語で教授する学校であった。なぜ大学という名称を用いず区別したのかとい
うと、政府が学制において示した「大学」とは、日本人が日本語で教育する学校で、なお
Ⅰ 教育理念の形成過程
かつ総合大学を意味していたからである。そして、この専門学校の目的は、将来そのよう
な大学を設立するために、西洋の学術・技芸を日本語で教授することのできる日本人の教
師を養成することであった。日本の高等教育は外国人の「お雇い教師」によってはじめら 送っているとまで形容された。
れ、その授業は英語やドイツ語で行われたため、学生は「日本人にして西洋人」の生活を
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