井上円了の教育理念

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- これは西洋的スタイルをまねることが不平等条約の改正に必要であるという考えから出た
ことであった。そこで政教社の人々は、欧化主義に対して、ナショナリティを訳した「国
粋主義」あるいは「日本主義」をスローガンとし、日本固有の宗教、教育、美術、政治、 しようということである。
生産制度などの長所を保存することを主張した。すなわち、日本人としての主体性を回復
政教社に集まった人々は、 哲学館系と東京英語学校系とに分けられる。前者は井上円了、
三 宅 雪 嶺 (雄二郎) 、加賀秀一、島地黙雷、辰巳小次郎、棚橋一郎と、ほとんどが東京大学
出身者で、後者は志賀重昻、松下丈吉、菊地熊太郎という顔ぶれで、札幌農学校出身者で
ある。いずれも官僚とならず、あるいは官僚をやめて自主独立の道を歩んだ人であった。
Ⅰ 教育理念の形成過程
彼らの活動は明治二十一年四月から発行された雑誌『日本人』を中心に行われたが、その
主張は明治中期の思想界を二分するほど大きな運動として普及した。その理由としては、 となどが考えられる。
彼ら自身が西洋の近代的知識を身につけていたことや、民衆の側に立った運動であったこ
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哲学館創立は明治二十年九月であるから、 政教社の誕生とほぼ前後していることになる。
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