井上円了の教育理念

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- きな課題となった。
明治三十六年の専門学校令によって、私立学校は国の高等教育制度の認知を受けたもの
の、その地位は低いものであった。しかし、専門学校の中には帝国大学と並ぶほど水準の
高い学校もあり、それぞれ大学への昇格を目指して運動を展開していた。政府はこれに対 につくことを認めた。
応して、大正七年十二月に「大学令」を公布し、専門学校が官立大学と制度上同等の地位
大学令公布の背景には、人材養成に対する社会的な要求が高まってきたということもあ
った。初期の帝国大学には国家的エリート養成機関として官僚的行政的な多くの特権が与
Ⅳ 新しい教育理念を求めて
えられていたので、その出身者が実業に就くことはほとんどなかったが、経済的に発展し
てきた日本社会ではしだいに企業の役割が大きくなり、大正時代になると帝国大学の卒業 彼らの就職先は財閥系の大企業や銀行などであった。
生の中からも「官」の枠組みからはみ出て、 民間へと流出するものが増えてきた。そして、
これに対して、私立専門学校の出身者は、学歴主義的な序列を裏打ちするように、中流
の企業や新たに創設される企業などに就職する傾向にあった。しかし、こういう企業こそ
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