井上円了の教育理念

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- った。国鉄の幹線はようやく通じていたが、幹線をはずれると軽便鉄道、馬車鉄道、ある
いはトロッコに身をまかせ、さらには船や馬に乗って行かなければならなかった。例えば
東京から宮崎県都城まで行くのに、汽車、川舟、馬車と乗り継いで、五日間もかかったと
記録されている。また、そのような旅では夜明け前に出発しなければならないことや、船
が欠航して二日間も島に足止めされるようなこともあった。また、地方では宿泊施設も整 いう。
っていなかったので、巡講先に宿屋がない場合には、小学校や役場の宿直室に泊まったと
巡講中の井上円了は、汽車は三等で、弁当は握り飯と決めていたし、服装からカバンや
時計などの所持品にいたるまで華美を排し、実用本位のものを用いていた。その姿を見て
Ⅲ 井上円了の教育理念
卒業生は「どう高く評価しても、山奥の村長か収入役くらいにしかみえない」と評してい る。
巡講は長期に及ぶことが多く、七十日、八十日、ときには百三十六日も休みなく講演を ぜい一週間で、またつぎの巡講に出発したという。
続けることもあった。したがって、自宅で過ごす時間は少なく、帰宅しても数日からせい
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