井上円了の教育理念

- ページ: 156
- 教育に専従し、全国巡講という形で展開していくことになった。巡講はそれ以前に明治二
十 三 年 か ら 二 十 六 年 ま で (第一期) 、二十九年から三十五年まで(第二期)の二期にわたって
行われたが、そこでは哲学の普及あるいは教育勅語の普及とともに哲学館の資金募集とい
う目的もあった。退隠後の明治三十九年から大正八年に逝去するまで続けられた巡講は、
国民道徳の向上のためであった。一月に辞職してから、その理由とされていた健康状態は
回復に向かい、四月の神奈川県、京都府の巡講を皮切りに、修身教会の拡張と充実を目指
して活動を開始した。井上円了は、建学の精神を引き継ぐ人に学校教育は委ねたので、再 中へと入っていった。
び一教育者という原点に立ち、かねてから重視していた社会教育活動に専念して、民衆の
井上円了は福沢諭吉を引き合いに出して、 「余は世間の学者を貴族的と称し、余自身をば
百姓的と唱えている。かつて福沢翁は平民的学者をもって任ぜられたが、余はそれよりも
一段下りて土百姓的学者である」と、自分の立場を明確に示している。また、福沢は一度
叙勲を辞退したことがあるが、井上円了も大正時代に二度叙勲を辞退し、このとき「無位
無官」で生涯を終え、権力の門に屈しない在野の学者 ・ 教育者であることを明らかにした。
152
- ▲TOP