井上円了の教育理念

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- めて退隠への決意を強くした。しかし、 彼は残る小学校の設立を自分の手で行い、 理想的な
一貫教育システムを完成させたうえで、 それをしかるべき人間に譲渡しようと考えていた。
夏休みには、静岡、山口、長崎、茨城の各県を巡講し、一時的に健康状態は回復したか しそうになることが二度もあった。
に見えた。ところが、十一月には神経衰弱がぶりかえし、十二月に入ると自宅の庭で卒倒
井上円了が退隠を最終的に決断したのは十二月十三日であった。この日上野精養軒で哲
学館大学記念会が開かれたが、この席上石黒忠悳と大内青巒の演説を聞いて決断した、と
彼は記している。残念ながら演説の内容には触れていないが、結果的に彼に小学校設立を や特典の取り消しなど三大厄日の発生日であった。
Ⅲ 井上円了の教育理念
断念させ、学校教育から身を引く決断をさせたのである。この十三日という日付は、火災
哲学館の譲渡
井上円了はかねてより数人のものと相談して、前田慧雲を後継者と決めていたが、退隠
決断から二週間後の十二月二十八日、彼は前田と三か条の契約を交わした。
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