井上円了の教育理念

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- 事態の深刻さを痛感した。新聞記者をしている卒業生に「近来一、二、哲学館を攻撃する
者があり、あるいは何か、学校に関し、掲載を申し込む者があっても、採用してくれるな」 ていた。
と手紙を出すほどで、学内問題にそうとう神経を使わなければならない状況に追い込まれ
解決策として井上円了には二つの方法しかなかった。第一は、哲学館の独立自活、実力
主義という新しい方針を捨てて、特典の再申請を行うこと。第二は、彼自身が学校経営か
ら身を引くこと。しかし、彼は自ら定めた方針を変更することはできなかったので、哲学
館のためには第二の方法を取るしかないことを、 この時点で覚悟していたものと思われる。
そして、その前に、彼は幼稚園から大学までの一貫教育システムをつくることを考えて
いた。明治三十二年に京北中学校を設立したのはその一環であるし、三十五年には「幼稚
園論」で小学校就学前の幼児教育の重要性を訴えていた。大学と中学校ができたあとは幼
稚園と小学校の設立によって、この教育事業は完成する。
彼はまず幼稚園の設立に着手、明治三十八年五月三日に自ら園長となって京北幼稚園を
開設した。この直後、再び疲労に襲われるようになり、 医師から 「神経衰弱症」 と聞くと、改
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