井上円了の教育理念

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- すでに述べたように、帝国大学(東京大学)に入るには、まず予備門で語学を学ばねばな や学問・知識の普及は望めない。
らなかったので、大学卒業までには七年もかかった。これでは近代化に必要な人材の養成
これに対して私立学校は、速成主義をとり、授業も日本語で行っていた。東京専門学校
(早稲田大学)の創立者の一人である小野梓は、明治十五年の開校式で、同校は速成を期し、
日本語で教授するところで、これによって学問の独立、大学の設立へと進むであろうと演 と同じ立場に立っていた。
説している。これは当時の私立学校の創立者たちに共通の考え方であり、井上円了もこれ
若 い教員
った。開設当初の講師 ・ 評議員(表
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こうして哲学館はスタートしたが、井上円了の理念の実現を支えたのは、教員たちであ
)には、創立までの協力者が多いが、特徴は二つある。
第一点は、講師十八人のうち十二人が東京大学の卒業生であること。第二点は、年齢が若
いことで、館主井上円了は二十九歳で、教員のほとんどは二十代と三十代であった。最高
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