井上円了の教育理念

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- マ ス コ ミ の反応
哲学館事件が最初にマスコミに登場したのは、明治三十五年十二月二十四日の『日本』
新聞であった。まだ事件は一部関係者にしか知られていないころであった。その記事は中
島徳蔵個人に焦点をあて、しかも事実とは異なる部分もあった。また、哲学館がいっさい
意見の公表を差し控えるという方針を取っていたこともあって、中島の投稿が掲載される
以前には社会的にはほとんど知られていなかった。ところが、中島と隈本の論戦がはじま には国会の質問で取り上げられるまでになった。
るや、マスコミによってこの事件がいっせいに報道され、一挙に社会の注目を浴び、五月
明治三十六年に出版された『哲学館事件と倫理問題』およびその続編には、哲学館事件
Ⅱ 教育理念の発展
に関する新聞・雑誌の代表的な記事や論文が収められているが、この二冊を中心にして当
時の関係記事の掲載件数を調査し、現在までに判明したぶんをまとめてみると表5のよう
な結果が出た。三十六年二月と三月に集中的に現れているが、特に二月には新聞・雑誌と
もに哲学館事件関係の記事等が掲載されなかった日はなく全国に波及した。「哲学館事件を
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