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設立記念シンポジウム

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哲学の国際化は可能か

設立記念シンポジウム

本センターの設立記念シンポジウムが、12月10日(土)午後1時より、東洋大学白山キャンパススカイホールで行われた。「哲学の国際化は可能か」との統一テーマのもと、基調講演に京都大学名誉教授の加藤尚武氏を迎え、パネル発表では東洋大学の吉田公平、山口一郎、菊地章太(順に本センター、第一、第二、第三ユニット研究員)の三名が発表を行った。およそ100名が参加した。

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はじめに竹村牧男学長が開会の辞を述べ、世界の哲学や日本の哲学の発展に対する本センターへの貢献を期待した。つづいて村上勝三センター長が挨拶を述べ、グローバル化が進む中での哲学の果たす役割の重要性を指摘した。
基調講演で、加藤尚武氏は、「哲学の国際化は可能か」というテーマで、パワーポイントを使用しながら約2時間にわたり、講演を行った。多岐に渉る豊富な内容であったので詳細は本センター刊行の年報(『国際哲学研究』)を見られたいが、具体的提言の部分は以下の通り。

氏ははじめに、哲学の一つの役割は、異なる文化や領域がぶつかった時に、それが両立可能かというような問題をはっきりわかるようにすることにあると述べた。

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また、国際化時代の哲学として、まず哲学史を影響作用史に置き換えることを提案した。影響作用史とは、この人のこの本をこの人が読んで、こういう影響を受けたということを探る分野である。さらに、その影響作用史を「学説誌」に置き換えることを提言した。古今東西すべての学説を並列的に並べる「学説誌」、世界中でどういう考え方の原型があったのかということを分かりやすい形で並べていくような学問の形成こそが、国際化時代の哲学なのではないかと述べた。

最後に、「哲学の国際化とは、異質の文化の異質性の根拠を明らかにすること」。つまり「根底的に異質的ならば両立可能であるはずなのに、中途半端に異質的であるために両立不可能に見える対立のもつれをほぐすことが哲学の国際化」であろうと述べ、この考えが普及すれば、根底的に異質な文化であればけんかの余地が無いのだし、共通性があれば協力しあって問題の解決をしようと、そういう方向に世界の思想を持っていく可能性が現代社会にあると結んだ。

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パネル発表ではまず、吉田公平教授が、「哲学は国際化できるか」と題する発表を行った。
哲学の国際化が問題とされる背景として、全球化(グローバル化)が浸透し各国・各地域の生活社会が一変したことにより、旧来の一国文化主義が通用しなくなったことがある。比較文化研究はその一国文化主義を相対化する試みとしてそれなりの役割を果たしたが、比較に重点が置かれており提言に慎重となっている。今は、客観的な理解を基礎にして、新たな価値体系を「問い」として提言することが求められている時代であろう。ただ、異文化の理解には偏向が避けがたい。日本から哲学の国際化を図ろうとして西洋や印度の哲学資源を受容する際には、日本文化が重層的に積み上げてきた心性を基礎にして外国産の哲学を受容しており、その受容には偏向・浅深があることをわきまえることが必要である。自らを相対化しながら異文化に真摯に立ち向かうことにより自らの心性との差異も見えてくるのであり、その差異の発見が独自性を生む視点を育てる。哲学の主役は市民であり、研究者はその資源の提供者である。自前の哲学を国際社会に「問い」かけとして提案することが哲学の国際化ではないか。

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山口一郎教授は、「国際哲学研究の課題と可能性―諸々の生活世界を源泉にする哲学としての国際哲学―」というタイトルで発表した。
哲学は人間の生存と行動全体を批判的に考察対象とすることができる学問であるので、原発事故や地球温暖化に直面している人間にとって、哲学の役割は決定的なものである。
自然科学の使用する客観的時間と空間の理解と、実生活における実体験の時間と空間の理解は異なっている。フッサールは生活世界が数学化されることに対して、感性と知性の全体を生きる人間の復権を唱え、自然科学研究を統合しうる「超越論的現象学」という哲学研究の方向性を示した。生活の仕組みや成り立ちについての反省を踏まえることなくそのまま生きていく「自然な態度」、自然科学の世界観に準じて生きる「自然主義的態度」、社会の構成員として互いを人格と認めて生きる「人格的態度」があるが、さらに、それらの諸態度の本質と生成について哲学として考察を進めるのが「超越論的態度」である。技術文明による技術文明の危機に直面している人間にとって、これらの諸の態度による生活そのものを可能にしている「生活世界」の確保が肝要である。それには、諸学問を方法論的に統合しうる哲学の超越論的態度において、自然科学研究の適切な位置づけがなされることが必要である。

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哲学は自然科学の方法論の射程を見極め、自然科学の適切な研究方向の示唆さえ可能とするものである。また、感性を基盤とする「情動的コミュニケーション」の内実が知性を通して言語化される必要があるが、哲学者は経験を言語化する役割を担い、他者の心の痛みが言葉になるときを待ち、それの手助けをするとともに、自分の感性を言葉にする努力も行う。それが感性と知性の全体として生活世界に生きる人間から出発する哲学考察の態度である。

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菊地章太教授は、「蓄積される罪と罰 ― 道教の承負思想から現代へ」という発表を行った。哲学の分野において世界規模の連携を構築するという本センターの目標へ向かうには、さまざまな時代や地域の思想の差異を明らかにしたうえで共通点や接点を探る必要があるとの問題意識のもと、罪に関する道教の思想を仏教思想と対比しつつ紹介し、今日的な問題の根源を過去の哲学思想のなかに探る意味について模索した。

「承負」とは、紀元二世紀、漢王朝の末期に反乱を起こした太平道の思想であり、天地のはじまりには太〔おお〕いなる平らかな世があったが、現在は悪しき状態にある。人の犯した罪は個人では解消しきれず世代を越えて蓄積されるという考えである。やがてそれは社会全体の罪という方向へも拡大する。道教におけるこうした罪の観念は、仏教の考えとは異なる。仏教では何事かをなせばその行為に応えてその報いがいつかどこかに現れると考える。ただ、その報いを受けるのはあくまで個人が単位であり、「親の因果が子に報い」ということはありえない。どれほど生まれ変わりを繰り返えそうと、果報はいつか自分が負うしかない。また、世界は繰り返すという考えは仏教にもあるが、それは自然のサイクルであり人間の営為とはまったくかかわりがない。他方、中国的な思惟のなかでも天地は崩壊ののち再び開闢するが、それは太平が実現されていた理想の王朝の再来である。これは神の国である新しいエルサレムが地上に現出するという考えとも異なる。このように、東アジアでは宗教も現実の政治に引き寄せられ、南アジアでは宗教と政治が截然と分けられ、西アジアでは政治までもが宗教に組み込まれており、あざやかな対照をなしている。

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3つのパネル発表の後には、パネルディスカッション(総合討論)が行われ、四名の発表者が登壇し、モデレーターとして、本センター長村上勝三教授が加わった。

討論では会場からの質問へ応答がなされ、また、登壇者同士での質疑応答がなされた。その中で加藤氏は井上円了博士について、物事を正面から見据えて、日本の国民文化とは何かということに対する真摯な思いから著作を作っていったのであり、国民文化としての日本の哲学を形成するという意気込みから学ぶべきものはたくさんあると結んだ。

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