12月19日研究発表例会 発表報告

初期真宗における東国門徒の研究

―親鸞思想の特異性と門弟たちによる受容と展開―

 院生研究員 板敷真純

 本発表は初期真宗における「坊守」の活動に焦点をあてその詳細について論じた。「坊守」とは道場主とともに道場を守る道場主の妻のことをいい親鸞の妻恵信尼はその嚆矢といわれている。本発表では恵信尼の立場を確認しその後に真宗の史料を用いて道場主の妻の役割等について検討を行った。その結果以下のことが分かった。

  1. 親鸞の妻恵信尼については基本的には同朋の立場を出るものではなく、『恵信尼消息』には教団運営等に関わった様子は見られない。
  2. ところが十四世紀になると円福寺阿弥陀如来三尊像の墨書中の横曽根門徒の証智尼に見るように、女性でありながら道場主の後継者となり「善知識」と仰がれる人物も登場するようになった。このような善知識として活躍する証智尼は中世において女性が善知識として活躍した貴重な一事例といえる。
  3. 『存覚上人袖日記』等の存覚の著作によって同じく十四世紀には道場主が亡くなった後、その道場を維持するため中心的な役割を果たしたのがその妻たちであったことを窺うことができる。
  4. 十四世紀に仏光寺門徒が用いた「絵系図」において道場主夫妻が法脈で結ばれているのも妻が道場の運営に重要な役割を果たしていたためと推測できる。仏光寺を開いた了源の妻了明尼が夫の死後、道場運営に活躍したことはよく知られており十五世紀に書かれた「光明本尊」に描かれて礼拝対象となったほどであった。
  5. 十五世紀に書写された「一向専修念仏名帳」などでは道場主の妻を「坊守」と標記するようになっている。これは十四世紀の真宗の道場において、道場主の妻の役割が非常に大きなものになっていたことを前提とするものであり、この時期に現れた『親鸞上人御因縁』において、親鸞の妻を「坊守」と呼び、あたかも道場運営に積極的に関わったかのように述べるのは、この時代の観念を投影したものと言える。

 本発表では真宗の門弟たちの史料から坊守の活動を見てきた。まず『恵信尼消息』に見られるように、真宗では当初恵信尼が道場運営を行っていた記録は確認出来ない。しかし十四世紀に入ると道場主の妻が夫とともに道場運営を行いさらに法脈をも相承していた。このために自然に妻に対する役割が大きいものとなり、その結果必然的に妻の役割が記録されたと考えられる。また後家尼の慣習と道場主の妻の行動は重なっていたと考えられる。しかし道場主の妻は後家尼の立場にあり、かつ法脈を相承しているという点で後家尼の活動とは異なっている。

 このように真宗内の僧侶の妻帯や道場主の妻という立場には、先行研究に言われるような親鸞の「非僧非俗」の思想をよりどころとした記録は見られない。彼らが妻帯や道場主の妻としての活動を行ったのは、親鸞の「非僧非俗」に由来する思想的問題ではなく、当時の妻帯の容認の風潮に従ったことや、実子相続の道場運営の必要性という切実な問題が生じたためであると考えられる。

 

 

等身大の聖人―王守仁の聖人観

 奨励研究員 志村敦弘

 近世以降の儒教では、誰もが聖人(伝説の聖王である堯・舜・禹、殷王朝の創業者湯王、周王朝の創業者文王・武王、周王朝の奠基者周公旦、孔子、の七人)になり得る、または、なるべきだ、という理念があった。明の王守仁(王陽明)もその理念の信奉者であった。

 王守仁は若き日に聖人たることを志して失敗したが、後に自らの思想(いわゆる陽明学)を打ち立ててからも、聖人について論じていた。では、それはどのようなものであったのか。

 王守仁の描く聖人像は、超人的な力量があることを前提としない。むしろ常人同様の五感や心の働きがあることを強調する。その究極的に意味するところは、聖人であれ常人であれ、人はすべて心の良知を発揮しさえすれば、その結果として為したことは何であれよい、という多様さを認めることにある。その多様さは、いわゆる「個性」ではなく、個々人の置かれた現実(対他者関係)への対処の多様さを言うが、この社会的関係性ということが彼の聖人像の重要な特色なのである。

 人は社会的関係性の中にあって、誰もそれを超越して生きることはできない。王守仁においては聖人も同様で、常人との社会的関係性のただ中で生きている。例えば聖人孔子は、弟子との問答の中で道を探求する精度を向上させる、という。それは、聖人は常人とは異質の超越的存在ではなく、むしろ常人と関係してこそ、聖人の本領が発揮できることを意味する。それは、王守仁描くところの聖人が不完全な存在であることを意味する。そこから「孔子の言葉であっても、納得できなければ正しいとはしない」という大胆な発言が飛び出すに至る。

 しかしそのことで人々の模範としての聖人の存在意義が無くなるわけではない。むしろ王守仁においては、聖人とは不完全であるがゆえに道を絶え間なく探求する過程的存在であり、一箇の求道者であり続けるという点に意義がある。

 このような聖人像は朱熹のそれと大きく異なる。朱熹の描く聖人は道の体現者であり、その言動のすべてが万人の規範となるような、常人とは別格の存在であり、それゆえ彼においては、聖人は批判しようのない完全無欠の存在であった。

 そして、王守仁の以上のような聖人像が描き出された背景には、聖人をその歴史上の事実の姿に還元し、そのままに受容しようとする彼の発想がある。朱熹やそれ以前の儒者達のようにことさらに美化する必要を認めていないのである。それはまさに「等身大の聖人」像であるといえよう。

 その背景には時代の流れもあった。彼が生きた明代中葉には、体制教学たる朱子学的解釈を乗り越えて直接に古の実像を掴もうとする風潮が世を覆っていた。王守仁の聖人論はその流れの中にあったのである。

 

 


『釈摩訶衍論』の成立と武則天 ―新羅華厳との関係の再考―

                                                                                  客員研究員 関 悠倫

 本発表は、これまでの『釈摩訶衍論』(以下『釈論』)の成立に関する研究に対して、武則天(六二四~七〇五(在位六九〇~七〇五))との関係を注目することによって新たな知見を呈示ようと試みたものである。これを論証するためには、従来、指摘されてきた新羅華厳との関係―朝鮮成立説―を再検証することが重要になってくる。

 そこで本考察では、まず『釈論』の序(以下、『釈論』序)の内容を見ていくことからはじめ、次に則天文字を制定した武則天が、自らの事績等を記録した「昇仙太子碑」があり、その石碑に記される尊号と関連性を確認した。その上で、『釈論』と同碑との関係を結びつける上で有効かつ華厳思想との接点を再考する観点からも重要である、武則天と実叉難陀の翻訳事業―実叉難陀訳『華厳経』序―についても概観しながら、密教典籍や菩提流志訳『宝雨経』といった資料とも比較検討を加えていった。

 その結果、本研究を通して少なくとも『釈論』序の作者は、実叉難陀訳『八十花厳』訳出の状況を把握した人物であることは勿論のこと、元暁や法蔵の典籍も参照できる環境下にあり、さらに菩提流志訳『宝雨経』の存在をも熟知していたといえる。何よりも上記の訳出の環境には武則天という人物の意向を色濃く反映させたものであったことを確認できたのである。このことは『釈論』序や本文に見出せる記述に大いに影響を与えていることからも、偶然の一致とは思えない。

 『釈論』序ならびに本文の作者は、武則天による政治情勢をよく理解した人物であったと考えられる。そして序の作者と本文の作者は、『釈論』の造論に関する馬鳴と龍樹の関係や、同論が主張したい事柄を押さえていることからも同一人物か、かなり近しい者であったろうと推察されるのである。加えて、最古の写本である石山寺本が、唐の武則天の時代の『釈論』を書写していると見られる点も考慮すれば、中国成立の補強材料に成り得るのではないだろうか。

 すなわち筆者は、『釈論』の成立を六九九年から、則天文字の使用が禁止される以前の七〇五年頃の間と考える。近年、『釈論』が朝鮮成立と支持されてきた見解に対する、異なる見解、すなわち成立地は中国という従来説を支持しながら、作者については従来説である新羅華厳と関連している点を踏まえると朝鮮出身者ではないかと思われる。

 本研究では、従来、成立年代や成立地についてまとめて論じられてこなかった『釈論』成立に関する資料が、中国に多く見出され、成立時期について七世紀後半から八世紀初めを指摘できた。『釈論』が成立したと考えられてきた年代や成立地について再検討を迫るには一定の知見を呈示できたのではと考えるのである。

 

 

『明呪大妃大寒林経十萬註』における2種の『大寒林陀羅尼』について

 客員研究員 園田沙弥佳

 『大寒林陀羅尼』Mahāśītavatī(略号ŚV)とは5種の初期密教経典の集成である五護陀羅尼(Pañcarakṣā)に属しており、先行研究において2種類の存在が確認されている。両者は経題や内容構成にも大きく相違があるものの、先行研究においてŚVと見なされている。2種のŚVの内容に関して簡単に述べると、『聖持大杖陀羅尼』Mahādaṇḍa dhāraṇīŚV-A本)は寒林で様々な障りに苦しめられていたラーフラに世尊が大寒林陀羅尼を授ける場面が説かれている。他方『大寒林経』Mahāśītavana sūtraŚV-B本)は世尊と四天王の対話が中心で、世尊が四天王の陀羅尼より優れた「大寒林陀羅尼」を授ける場面が説かれる。なお、ŚV-B本にラーフラの名は直接登場しない。

 11世紀初頭のカルマヴァジュラKarmavajraが著した『明呪大妃大寒林経十萬註』(ŚVŚS)はŚVの注釈書であるが、その内容はチベット語訳において「大寒林」の名を持つŚV-B本以外に、ŚV-A本の内容が含まれている

 本発表で取り上げたŚVŚSは、ŚV-A本の注釈の終わりに「明呪の心髄の章第一を終わる」と記された後、ŚV-B本の注釈が続く。この「明呪の心髄の章」に関しては章の名前を示している可能性が考えられる一方、経典の分量が少ない明呪(ŚV-A本)がŚV-B本の心髄であるという両者の関係性を示唆している可能性もある。

 以上のように内容や経題が異なる2種の経典がŚVと見なされた経緯は未だ明らかではないものの、二つの経典が一つの注釈書に含まれた背景として、当時ŚVと見なされていた両テキストを注釈者が意図的に合体させて注釈を行ったこと、あるいは、ŚV-A本とŚV-B本の内容が元々一つとなっているテキストを注釈者が使用したことが推察される。この場合は現在確認されているŚV-A本とŚV-B本以外に、新資料として第3ŚV文献が存在したことになる。

 陀羅尼呪の比較に関しては、2回に分けて説かれる陀羅尼呪の内容に一部相違が生じており、ŚVの経題にみられる多様性と同様に様々な系統の写本が制作され展開したことがうかがえる。また、ŚV-A本の経題に含まれる‘daṇḍa’は歓喜や杖を意味することが先行研究で指摘されている。一方、「ラージャグリハがダンダカ国等の3国を有す」というŚVŚSの注釈を考慮した場合、ヒンドゥー教の聖地のひとつであるダンダカ国の地名やダンダ王、ダンダーラニヤカという森の名が関係することが推察される。特にダンダーラニヤカは『ラーマーヤナ』に登場する主要な場所であり、邪悪な王ダンダの話が説かれる『ヴァーマナ・プラーナ』にも見られることから、ŚV-A本成立の際にヒンドゥー教の影響を受けたことが考えられる。