10月21日研究発表例会 発表報告

韓国仏教信者の活動―祈祷と修行―

 客員研究員 佐藤厚

 日本と韓国には共に仏教が伝統文化として存在するが、仏教信者と仏教とのかかわり方が異なる。日本は葬式・法要が中心なのに対して、韓国は祈祷・修行が中心である。では韓国ではどのような祈祷・修行が行われているか。本発表では、韓国の仏教系新聞に連載された仏教信者の信行体験を整理し、代表的な祈祷・修行方法とそれを行う寺院を紹介した。これにより韓国仏教の一面が理解できるとともに日本仏教との違いが明らかになるであろう。

 第一に代表的な祈祷・修行の種類は次の通りである。①チョル修行。これは五体投地に似た身体動作で、同じ場所でこれを繰り返す。3000拝など回数を大量に行うことが特徴である。②陀羅尼読誦。これにはいくつかある。1.『神妙章句大陀羅尼経』中の大悲呪、2.『楞厳経』の中の楞厳神呪、3.『地蔵経』の中の讖蒱陀羅尼、4.アビラ祈祷などである。いずれも大量に読誦する。③経典読誦。『金剛経』が最も多く、ほかに『法華経』などがある。いずれも大量に読誦する。④参禅。韓国の禅宗の伝統である、座禅をしながら話頭(公案)を参究する看話禅の方法で行う。⑤写経。『法華経』、『千手経』、『般若心経』、『観音経』などを写経する。⑥念仏。南無阿弥陀仏の名号を唱える。また念仏禅もある。⑦慈悲道場懺法。『慈悲道場懺法』の読誦により、自他の業障を消滅させるはたらきがあるといわれる。⑧ヴィパッサナー。南方上座部の修行法で自分の心の動きを観察する瞑想法である。その他、⑨慈愛瞑想、⑩慈悲禅修行、⑪慈愛瞑想がある。

 第二に、信者の行動の特徴は次の通り。①祈祷・修行に入るきっかけは、病気、事故、人間関係、経済問題、仕事上の問題などが多い。②修行の効果は、考え方の変化、性格改善、健康回復など。③加入や持続にインターネットサイトが重要な役割を果たしている。

 第三に、連載に頻繁に登場する寺院を紹介する。①法王精舎(慶尚北道)。チョンギョン和尚が主宰する代表的なチョル修行道場。②徳陽禅院(京畿道)。ポプサン和尚が主宰する大悲呪専門の修行道場。③弘法寺(プサン)。シムサン和尚が住職を務める。④大光明寺(プサン)。モクチョン和尚が住職を務める。①、②は特化した修行で有名である。③、④は人に合わせて陀羅尼、座禅、看経、写経など、様々な修行を勧めることや、住職による修行の点検が特徴である。これらの寺院は1990年代以後に設立された新しい寺院である。修行自体は韓国仏教の伝統に基づくものであるが、人気を集めている理由は住職の宗教性や信者の受容に応えるような組織作りがある。

 第四に、日本との違いを述べると、祈祷は日本でも行われるが、韓国ほどは行われていないであろう。また在家者の修行も日本では一般的に行われていないのではないか。これらは日本だと新宗教で行われるものと考えられる。

 

 

中国仏教を調査する

 客員研究員 愛宕邦康

 筆者はコンサルティング業界に身を置き、多数の組織調査を行っている。この数年間は年四回のペースで浙江省寧波市の天童寺や雪竇寺に滞在し、社会学(構造主義)の観点から中国仏教に潜在化している構造形態を抽出分析する作業を行って来た。今回の発表では筆者の調査内容について概略的に紹介し、日本における中国仏教研究の問題点について指摘した。

 日本仏教は空海への東寺勅賜(八二三)に始まる一寺一宗体制の浸透により、「宗派」を単位とする社会的アイデンティティ(自身と所属集団とを同一化して認識すること)を基軸として成立している。これに対して中国仏教は「寺院」の中に様々な「宗派」の「僧侶」が雑居する一寺多宗体制が是とされ、個人的アイデンティティ(自身と他者とは異なる存在であると認識すること)を基軸として成立している。当然、組織の運営方針も全く異質のものであり、三隅二不二が提唱したPM理論(リーダーシップ理論)によって説明すれば、日本の組織(教団)運営には外部の「宗派」に対しての優位性を顕示する「職務遂行機能(Performance)」が重視され、中国の組織(寺院)運営には内部の「宗派」の対立を緩和する「集団維持機能(Maintenance)」が重視されることになる。日本の「宗派」が宗祖を起点とする宗学研究によって独自性を追尋し続けるのも、中国の「寺院」が同一の法衣着用や同一の勤行作法を義務付けるのも、それぞれの運営方針の根本的相違に立脚するものと言ってよい。

 また、中国仏教における「宗派(学派)」は組織としての体裁を成すものではなく、「僧侶」に付帯する概念であるため、「寺院」の移動に際しても改宗や棄宗の必要がなく、尋師訪道によってひとりの「僧侶」が複数の「宗派」を保有することも可能である。実際、中国では明確に「宗派」が特定できる「僧侶」は決して多くはない。例えば、道元の師であった天童如浄は、病によって天童寺住持を退いた後、涅槃堂にて曹洞宗の足庵智鑑への嗣承香を行ったこと、また、道元に対して曹洞宗を授けたことから、曹洞宗の法脈を所持していたことは明白だが、如浄遍歴の師は、松源崇岳、拙庵徳光、無用浄全、遯庵宗演など、臨済宗の祖師も多く、彼等から臨済宗を嗣法しなかったとは断言できない。中国では曹洞宗を嗣法していることが、臨済宗を嗣法していないことの積極的な根拠になることはなく、道元へも既に日本で栄西の弟子明全より臨済宗を嗣法していたため、敢えて曹洞宗しか授けなかった可能性も考えられる。

そもそも、日本では臨済宗の大慧宗杲の禅風によって公案を用いる看話禅が臨済宗、曹洞宗の宏智正覚の禅風によって只管打坐の黙照禅が曹洞宗として理解されているが、大慧宗杲が住持を務めた阿育王寺にも多数の曹洞宗僧が修行し、宏智正覚が住持を務めた天童寺にも多数の臨済宗僧が修行していることを思えば、宗派単位での対立とする捉え方には物理的な無理がある。日本と中国では「宗派」の定義付け、及び「宗派」「寺院」「僧侶」の相関関係が全く相違しており、今後の中国仏教研究には宗学研究によるカテゴリー錯誤(固有の属性を全く不適合なものに帰属させる誤り)の指摘とその修正が重要課題となるだろう。

 

 


「我らの経典」としての『華厳経』-金子大榮の「読み」-

                                                                                  客員研究員 伊藤真

 近代日本(明治・大正・昭和初期)の仏教者たちが『華厳経』をどのように読み、何を見出したかを考察するという、発表者が近年テーマとしている研究の一環として、今回の例会では清沢満之の浩々堂の系譜に連なる金子大榮1881-1976の『華厳経』理解を取り上げた。真宗大谷派の僧であり仏教学者であった金子大榮は、真宗大学で華厳学を専攻し、のちには真宗大谷大学で長く教鞭を執り、『華厳経』に関する種々の論考を残した。そんな金子の華厳思想を改めて検討することは、彼の仏教研究の重要な一面に改めて光を当てると同時に、金子の革新的な「読み」から、『華厳経』の現代における意義を改めて見直すきっかけにもなるだろう。

 金子は中国唐代の法蔵に代表される伝統的な華厳教学を「論理の巧妙」に於いては「仏教中第一位」としつつも、「吾人の魂に何らの響きも与えない」と批判した。そして『華厳経』を「仏華厳」(「仏華によって国土を荘厳すること」と金子は解釈した)の一点に収斂させ、「普賢行」を説く「行の経典」であると見た。本発表ではこのような金子の『華厳経』の「読み」を三つの視点から考察した。

 第一に、『華厳経』の構造的理解。金子はこの経典を七處八会に分ける法蔵以来の分類法に依拠しつつも、最初の寂滅道場会(世間浄眼品)から第七・普光堂重会(如来性起品)までを「第一部」の経とし、第八・重閣講堂会(入法界品)を、独立しつつ「第一部」と合致する「第二部」の経として重視する独自の見解を示した。

 第二に、「普賢行」の重視。金子は『華厳経』に登場する諸菩薩・善知識はみな大悲を象徴する普賢菩薩に統一されると主張。その「普賢行」とは具体的には「恭敬供養一切仏」と「開化衆生」であるとした。衆生は仏と同様に恭敬されるべきであり、「供養諸仏」は「開化衆生」によってこそ実践され、逆に「開化衆生」は「供養諸仏」の心をもって衆生と接してこそ真に可能だとして、「普賢行」を具体的な行として捉え直そうとした。

 第三に、空観。金子は『華厳経』のベースには『般若経』の空観があるとして、仏と衆生は空であればこそ一でもあるとして、「供養諸仏」と「開化衆生」の一致を空観で基礎づけた。

 金子はこのような「普賢行」はいかに遠大に思えようとも行じるのは人間であるとし、「衆生の煩悩の大地」に行われるものだと述べた。このように「凡夫の身にも感ぜらるるもの」として理解して初めて「『華厳経』も我等の経典となる」としたのである。なお、オンラインの「フロア」との質疑では、金子研究のご専門家の東真行氏(親鸞仏教センター研究員)から金子の真宗学と華厳学の関係について有益なご指摘・ご質問をいただいた。

 

 

ヴィマラミトラの『般若心経』解釈ー「八様相」と三解脱門ー

 客員研究員 堀内俊郎

 「ヴィマラミトラの『般若心経』解釈ー「八様相」と三解脱門ー」というタイトルで発表を行った。「インド・チベットの『般若心経』(『心経』)注釈書(チベット語〔訳〕としてのみ残る)が注釈対象とする『心経』は、玄奘訳に代表される小本ではなく、「如是我聞」で始まる大本の方である。そのなか、インドのヴィマラミトラ(8世紀)による注釈は詳細かつ精緻であるが、従来その内容が理解されてきたとは言い難い。

 本発表では、『心経』漢訳では「是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減」に相当する部分-ヴィマラミトラが「八様相」と呼ぶ部分-を中心に、ヴィマラミトラの解釈を明らかにする」。このような趣旨のもと、同論に対するチベット語校訂テクストはいまだ存在しないのでそれを作成すること。その際、テンギュルの基本的な版本である北京版、デルゲ版に加え、出自不明ではあるものの前2版よりも適切な読みをしばしば有するところのTという版本を初めて使用すること。同論はもとはサンスクリットで書かれた翻訳チベット語文献であるので、インドの仏教経典注釈書の常識を押さえた上で読解すること、などといった手続きにより、当該箇所を読み解いた。そして、以下のことなどを指摘した。

 玄奘訳『心経』では「是諸法空相」に続き、「不生・不滅」などの6つの否定句が列挙されるが、周知のとおり、インド・チベットの注釈は、空性・無相・不生・不滅などと、8句と理解する。ヴィマラミトラはそれを「八様相」と呼び、精密な解釈を施す。当該箇所は教理的な術語を含むため従来その解明が不十分であったが、その解釈を明確にした。ヴィマラミトラは、なぜ八様相のみが、しかもこの順序で説かれたのかという問いを設ける。従来その回答は逆に理解されてきたが、その要点は以下の通り。

 『心経』は般若波羅蜜の核心-他の一切の支分よりも優れ、主要なもの-である。その般若波羅蜜の主要な意味は、三解脱門である。そして、その三解脱門が、『心経』の説く八様相に順序通りまた過不足なしに含まれるから、『心経』は八様相のみをこの順序で説いたのだというのが、ヴィマラミトラによる回答である。

 『心経』の「空中無色」という経文は、ヴィマラミトラによれば、「『空性』が観察されている時には、『色』は観察され〔え〕『ない』」と、語を補って理解されるべきである。そしてそれは、世俗においては存在するが勝義においては存在しないということを意味する。なお、詳細は『東洋学研究』58号所収の同名の拙稿を参照されたい。