現象学のアプローチから世界のありようを問い直す

東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。自治医科大学総合教育部門(哲学)教授を経て現職。専門は現象学・環境哲学・リハビリテーションの科学哲学。著書に『絶滅へようこそ―「終わり」からはじめる哲学入門』(晶文社)など。

TOYO PERSON

哲学の方法論を社会の現場で生かす

「例えば、自分の体重と同じ重さの米俵を持てと言われると重そうに感じることでしょう。しかし、普段、人は自分がそれほどの質量を抱えていることを感じることなく生きています。物理量としての身体と本人が感じ取っている重さの間にはズレがあるわけです。このように客観的な認識と身体の中から感じ取る内面性、この2つの関係性を扱うのが現象学なのです」
文学部哲学科教授の稲垣諭は、現場主義の哲学者だ。医療や建築など多様な分野の現場に飛び込み、現象学の方法論により新たな視点で知見を得る。中でも、積極的に取り組んでいるのが、リハビリテーション医療における哲学だ。
「病院で左半身が麻痺したあるおばあさんに『左手はどこにありますか?』と聞くと、『冷蔵庫に忘れてきた』と答える場面に立ち会ったことがあります。奇妙な返答に思えるかもしれませんが、その時、なぜそのような返答をしたのか考えることが重要です。左手を自分の体の一部だと認識できず、それがなぜだか冷たく感じられる。それで、“冷蔵庫に忘れてしまったのかな?”と考えたのであれば、かなり正確に自分の身体感覚を伝えようとしていたのかもしれません。そのように現象学的な方法論を用いれば、セラピストに新たな視点を与えることができるのではないかと考えています」

哲学の方法論を社会の現場で生かす

「絶滅」の視点からSDGsのあり方を考える

稲垣は2022年、『絶滅へようこそ―「終わり」からはじめる哲学入門』という著書を上梓した。一見刺激的なタイトルだが、そこには現代社会に対する多くの建設的な示唆が盛り込まれている。
「これまでに発生した生物種のうち、99.9%が絶滅しています。絶滅は生物にとってむしろ当たり前のことなのです。さらに、50億年後には太陽が寿命を迎え、確実に人類は絶滅します。そのような発想に立ち、人類は『終わっている』という前提で生きていくことで、新たに見えてくるものがあると考え、本を執筆しました」
 現在、声高に叫ばれているSDGsのあり方についても、この「絶滅の視点」から疑問を投げかける。
「今、1万円をもらうか、1ヶ月後に1万1000円もらうか、学生にたずねると多くが今の1万円を選びます。人間はどうしても目先の利益や快楽に引きずられてしまう。この現象を時間割引と呼びます。SDGsでは、2030年という未来のことを考えて、今の行動を変えるように伝えていますが、50億年というスケールで考えると、SDGsはごく近い将来のことしか考えていない。SDGsにも時間割引が入り込んで、思考が止まっている可能性があるのです。確実に絶滅してしまう中で、人類は未来世代にどのような環境を残していくべきなのか、考えてみることも必要ではないでしょうか。このように、絶滅を前提に考えることで、SDGsがはらむ力みや現代の人間が抱える緊張を解くことができると考えています」

「絶滅」の視点からSDGsのあり方を考える

取材日(2022年9月)
所属・身分等は取材時点の情報です。