東洋大学とオリンピック History of Toyo University with the Olympic and Paralympic Games

10.“アマチュア野球軍団” 最後の挑戦

もともと、近代オリンピックは“アマチュア”のみが参加を許された大会でした。初期のオリンピックはいわば上流階級のための社交場で、スポーツに限らず金銭を稼いで生活する労働者階級(プロフェッショナル)は排除されていました。この“アマチュア規程”の境界線は、やがて「スポーツで報酬を得ているかどうか」が基準となり、オリンピックは1980年代までプロスポーツ選手の参入を認めていません。その後、スポーツ界における商業主義の台頭とも関わって、オリンピックが徐々にプロ選手にも門戸を開くようになった結果、いまでは大半の種目でプロの参加が認められています。

オリンピックにおいてプロ野球選手の出場が解禁されたのは比較的遅く、2000年のシドニー大会からです。つまり、1996年のアトランタオリンピックの野球日本代表は、“最後のアマチュア軍団”であったことになります。アマチュアといっても、この時の日本代表は後のプロ野球界を支える人材で溢れていました。福留孝介、松中信彦、井口忠仁、谷佳知など、プロ野球選手と比較しても遜色のないそうそうたる顔ぶれです。代表メンバー20名のうち、実に10名がオリンピック後にプロ野球の道に進みました。

その豪華メンバーの中に選抜されたのが、捕手の黒須隆(1992年3月経営学部卒)と内野手の今岡誠(1997年3月法学部卒)です。浦和学院高出身の黒須は、東洋大学時代より強打の捕手として注目を集め、卒業後は日産自動車で活躍していました。一方、今岡はPL学園高を出て東洋大学に入学するや否や、1年時の春季東都リーグ戦で4番バッターとしてデビューを果たすと、勢いそのままホームラン王と打点王の二冠に輝いています。

アトランタオリンピックの舞台では特に今岡の活躍が目覚ましく、大会通算打率は4割3分、予選リーグのイタリア戦と準決勝のアメリカ戦で2試合連続のホームランを放ち、日本代表チームの躍進に大いに貢献しました。

オリンピック決勝戦の相手は、当時アマチュア野球最強を誇るキューバでした。序盤に大量失点を喫しますが、主砲松中の満塁ホームランなどで互角の展開に持ち込みます。最後は力の差を見せつけられ、9対13のスコアで敗戦しますが、日本代表は堂々の銀メダルを獲得しました。

このほかに、団体競技では1992年のバルセロナ大会にローラーホッケーの福田等(1986年3月経営学部卒)が、1998年の長野冬季大会にアイスホッケーの三浦孝之(1989年3月経済学部卒)が東洋大学からオリンピックに出場していますが、メダルを手にしたのは黒須と今岡がはじめてです。

オリンピックが終わると、黒須は日本代表選手としてさらなる飛躍を遂げ、1997年のインターコンチネンタルカップではキューバを破って悲願の世界一に輝きました。今岡は東洋大学卒業後、プロ野球の道を選び、阪神タイガース・千葉ロッテマリーンズで首位打者やゴールデングラブ賞を獲得するなど、2011年まで活躍しています。

1996年のアトランタ大会は、オリンピックにおける最後の“アマチュア野球最強決定戦”でした。決勝の舞台を経験した黒須と今岡は、一つの時代が終わりを迎える最後の瞬間に立ち会ったことになります。