東洋大学とオリンピック History of Toyo University with the Olympic and Paralympic Games

9.日本競歩界のパイオニア 未来を切り拓く

もともとは中長距離の選手であった今村文男(1989年3月経済学部卒)が、競歩の世界に転身していったきっかけは高校時代にありました。千葉県の強豪八千代松陰高校で都大路での活躍を夢見ていましたが、ハイレベルな練習に体がついていかずに入学当初より故障を繰り返す日々を送ります。そんな中、リハビリの一環としてはじめた競歩でしたが、2年生の夏にはこれが専門種目となりました。

徐々に才能が開花し、東洋大学入学後は30km競歩で学生記録を更新するなど、国内トップ選手へと成長していきます。今村は、自身の学生時代を「三年のときの関東インカレで自分が競歩で三位になったことでチームが一部に残留できたことが一番の思い出です。」(『東洋大学報』132号、1994年)と振り返っています。

卒業後は陸上部がある会社に就職しますが、会社が経営難に陥りわずか半年で退社を余儀なくされました。しかし、今村は現役続行にこだわり、その後1~2年間は工事現場や焼き肉店のアルバイトで食い繋ぎました。午前4時起床で練習し、その後は夜までアルバイトという過酷な日々でしたが、今村は「自分の夢や目標を達成するなら、何とも思わなかった」(『読売新聞』2016年3月7日夕刊)と言い切ります。

地道な活動の甲斐あって1991年には富士通に入社し、同年東京で開催された世界陸上(50km競歩)で7位に入り、この種目で日本人初の入賞を果たしました。その後は度重なる海外遠征で力を蓄え、50km競歩の日本記録を6回更新、1997年の世界選手権で2度目の入賞(6位)を果たすなど、パイオニアとして日本競歩界の未来を切り拓いていきます。

今村のオリンピックデビュー戦は1992年のバルセロナ大会です。猛暑の中、50km競歩は過酷なレースとなり、結果は18位でした。

続く1996年のアトランタオリンピックは代表から漏れますが、2000年のシドニーオリンピックで二度目のチャンスが巡ってきました。「日本記録を更新し、世界に通じることを証明したい」(『読売新聞』2000年8月30日朝刊)と意気込みましたが、審判の判定との相性が噛み合いません。今村の長いキャリアの中でもほとんど指摘されたことがない歩型違反を二度もとられ、リズムを崩したまま36位でフィニッシュ。がっくりと肩を落としました。

2004年4月11日、アテネオリンピック選考会の日本選手権が今村文男の引退レースとなりました。約20年間の競技人生に別れを告げた今村がセカンドキャリアとして目指したのは、指導者の道でした。大学院にも通い、先進的なトレーニング理論を確立すると、多くの選手が今村の元からオリンピックの舞台へ巣立っていきました。2012年に日本陸連の競歩部長に就任してからは、鈴木雄介選手(富士通)の世界新記録樹立や荒井広宙選手(自衛隊体育学校)の2016年リオオリンピックでのメダル獲得(日本人初)など、日本勢の大躍進を演出してきました。

東洋大学からは2012年のロンドンオリンピックに西塔拓己(2014年3月経済学部卒)が、2016年のリオオリンピックに松永大介(2017年3月理工学部卒)が、それぞれ在学中に競歩の日本代表として連続出場しました。先輩今村文男が蒔いた種は、いま、母校で確かに芽吹いています。