東洋大学とオリンピック History of Toyo University with the Olympic and Paralympic Games

8.燃える薩摩隼人 初の金メダリストへ

鹿児島県出身の宮原厚次(1983年3月経営学部卒)は、高校時代まで柔道に励んでいました。卒業後の進路に迷っていた矢先、東京に出てレスリングに転向する話が持ち上がります。そのスカウトを担当したのが、先に登場した本学初のメダリスト平山紘一郎です。

上京後は、自衛隊体育学校に所属して平山のもとでレスリングに没頭し、夜は東洋大学で勉学に励む多忙な日々を過ごしました。生来の才能もあってか、宮原はレスリングをはじめてわずか1年でグレコローマンスタイル48kg級の全日本選手権の覇者となります。その後、過酷な減量が自分の性格に合わないと見るや、52kg級に転向します。

1979年から数えて全日本選手権を破竹の6連覇。まさに選手としての絶頂期にロサンゼルスオリンピック(1984年)出場のチャンスが巡ってきました。逆境に強い“ケンカレスリング”が宮原の持ち味だったそうです。その信条が発揮されたのが、オリンピックの舞台でした。

決勝進出をかけた韓国の方大斗との一戦は、事実上の決勝と目されていました。開始直後から立て続けに攻勢を仕掛けられ、宮原は劣勢に立ちます。しかし、逆にこれが宮原の闘争心に火をつけました。宮原は一気に反撃に出るとたちまち逆転し、そのまま方を圧倒して初の五輪でファイナリストに名乗りを上げました。

決勝戦の相手はメキシコのアセベス。当時の世界レベルでは無名の19歳の新鋭です。試合開始1分ほどで、宮原はアセベスを背中から抱えあげ後方に投げる大技を繰り出しました。その後、ヒヤリとする場面はあったものの試合は宮原優勢で進み、ついに歓喜の瞬間が訪れます。東洋大学ではじめての金メダリストの誕生です。普段は試合後にあまり感情を表に出さない宮原でしたが、この時ばかりは両手を上げて跳びはね、マットの上を走り回って喜びを爆発させました。唯一、宮原の心残りは、当時のレスリング界で圧倒的な強さを誇った旧ソ連勢が、東西冷戦の影響でオリンピックをボイコットしていたことです。

ソ連勢を破ってオリンピック史上初の二連覇を達成すべく、宮原の挑戦は続きました。29歳で向かえたソウルオリンピックでは、当然ながら宮原には日本中から金メダルの期待がかけられます。初戦のフランスのロベール戦に圧勝すると、続くイランのカカハジ戦も難なく突破します。さらには、最大の強敵と予想されたソ連のイグナテンコを判定で退け、五輪王者の貫録を見せてV2に王手をかけました。

決勝戦の相手はノルウェーのロニンゲン。前回のロス五輪でも対戦し宮原が勝っている相手です。しかし、ロニンゲンは宮原のレスリングを徹底的に研究し尽していました。それまで冴えわたっていた得意技の“俵投げ”もロニンゲンの前には不発に終わり、序盤に奪われたポイントが響いてそのまま試合終了。こうして宮原のオリンピック連覇の夢は途絶えました。試合後のインタビューで宮原は「ロスの金より、よくがん張ったという実感があります。すべてを出し尽くして満足しています」(『読売新聞』1988年9月22日朝刊)と答えています。三十路を目前にしたベテランレスラーにとって、オリンピック連覇は体にむち打っての過酷な挑戦であったに違いありません。

ロサンゼルスで金。ソウルで銀。宮原厚次はオリンピック2大会連続のメダルを獲得し、先輩でありコーチでもある平山紘一郎に並ぶ偉業を成し遂げました。