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東洋大学とオリンピック History of Toyo University with the Olympic and Paralympic Games

5.“初物づくし”のスピードスターあらわる

ここでは、グルノーブル大会(1968年)と札幌大会(1972年)の二度の冬季オリンピックに出場したスピードスケートの斎藤幸子(1969年3月経済学部卒業)を取り上げます。

北海道釧路生まれの斎藤は、スケートとともに陸上競技にも取り組んでいて、釧路江南高校時代には陸上短距離でインターハイに出場した実績を持ちます。アイスホッケーの選手だった父親と二人三脚で競技生活を送り、高校2年生でスピードスケートのオリンピック候補選手に選ばれてからは“スケート一本”に絞り、日本選手権で総合優勝を果たしました。

鳴り物入りで東洋大学に入学した斎藤は、その後も次々と好記録を生み出します。500mと1500mの2つの日本記録を引っ提げて、大学3年生でグルノーブルオリンピックに挑みました。スケート関係者からは「カーブだけが不安」と評されていましたが、その不安はオリンピック本番で見事に的中してしまいます。500mのレース運びは順調でしたが、最終コーナーでカーブを切り損ねて転倒し、コース外の柵に突っ込み、そのまま救急車で病院に運ばれました。幸い重症には至りませんでしたが、斎藤にとってはほろ苦いオリンピックデビューとなりました。

卒業後、三協精機に入社した斎藤は、いよいよ競技人生のハイライトを迎えます。25歳の時、二度目のチャンスが札幌オリンピックで巡ってきたのです。この時までに国内で無敵の強さを手にし、まさに“スピードスター”になっていた斎藤に対し、日本中がこの種目12年ぶりの入賞に期待を膨らませました。直前の全日本選手権でも6つの日本記録を樹立し、まさに絶好調。しかし、またも世界の壁が立ちはだかり、結果は500mで9位と惜しくも入賞はなりませんでした。

東洋大学関係者として、冬季オリンピックに初出場、女性初のオリンピアン、在学中にオリンピックに出場した最初の選手、など、斎藤幸子の本学のスポーツ振興に対する功績は計り知れません。東洋大学の歴史に名を刻んだ人物のひとりです。