ある)。絶えず、脳病になるのではないか、気も狂うのではないかと思う」と書いている。結局、中島ら関係者の斡旋で、加藤は四月中旬に府立学校に就職した。加藤は、帰国した円了を自宅に訪ねて、この事件について「誠にすまないことをしました」と詫びたが、円了からは、いっさいとがめられなかったという。哲学館の学生たちは、学校が謹慎の態度を方針としていたため、表立った行動は取らなかった。しかし、学生も卒業生も孤軍奮闘する中島のことを忘れたわけではなかった。マスコミでの論戦が盛んになった二月、学生有志は中島の授業を受けた卒業生たちとともに見舞金の募集を開始した。三月末に、三七名から集まった約五二円を持って代表者が中島を訪ねたが、中島はそれを固辞した。事件によって、哲学館とくに学生に禍をもたらした責任を痛感していたからであろう。幹事の説得によって、中島は学生や卒業生の好意を受け入れたが、その見舞金で哲学館へ図書を寄贈した。それには「特典を失しても、かえって実力をますほどの成績」をあげてほしいという中島の願いが込められていた(このとき寄贈された図書は現在も東洋大学附属図書館に第三章 「哲学館事件」93
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