ショートヒストリー東洋大学
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社会問題たが、そうした渦中の三月に、文部省は事件の当事者でもある視学官の隈本有尚を、高等教育視察のためという理由でヨーロッパに派遣した。哲学館事件が社会の注目を集めるようになったのは、一九〇三(明治三六)年一月の中島徳蔵のマスコミへの投稿からであるが、中島と文部省の論戦が展開されると、マスコミは一斉にこの事件を取り上げ、そして五月二七日には帝国議会の衆議院でも質疑応答がなされるまでになった。マスコミによる報道は、表1のように、事件の発生した一九〇二年一二月から一九〇四年二月までで五六四件に上っている(現在までに確認した分)。とくに中島と文部省の論戦のあった二月から三月はもっとも多く、新聞・雑誌に「哲学館事件に関することが載らない日がない」といわれたほど、毎日のように紙面に掲載されていた。この事件がそれほどセンセーショナルな注目を浴びた背景の一つには、文部省が「教科書疑獄事件」に関係していたからと言われている。82   

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