「余が哲学館事件を世に問う理由」「貴館教育部第一科および第二科卒業生に対し明治三二年文部省令第二五号第一条の取扱を与うるの件は自今取り消す二二日、小石川区長から加藤三雄ら四名へも「検定不合格」の通知が届けられた。こうして「哲学館事件」は発生した。館主の留守をあずかっていた中島徳蔵は、責任をとって哲学館を辞職したが、その後も事件の打開に奔走した。明けて一九〇三(明治三六)年一月一八日、哲学館の幹事から無試験検定の認可取り消しは回復不可能との報告を受けると、哲学館の恩人である加藤弘之を訪ねて助言を求め、さらに同日から二日間にわたり、文部省へ出向き総務長官の岡田良平に面会を求めたが、面会できなかった。そのうちに、四名の卒業生の不合格が通知されてしまった。ここに至って中島徳蔵は、事件の顛末と、倫理学教授と教育行政上の問題という二つの観点から、「余が哲学館事件を世に問う理由」を執筆して、新聞社に投稿した。この中島明治三五年一二月一三日」という通知で、翌三六年一月第三章 「哲学館事件」77
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