ショートヒストリー東洋大学
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「陰謀」と「密告」員に就任したという経緯があった。「修身」は「教育に関する勅語」(教育勅語、勅語とは天皇が国民に対して発する意思表示の言葉)をもとに児童の道徳教育をおこなうものと定められていた。中島はこの修身教科書の改定の起草者であった。中島の就任から半年後に、突然右派のジャーナリズムから「勅語撤回論を為すがごとき大不敬漢中島某なる壮士」と名指しで非難された。この問題は、帝国議会衆議院でも取り上げられ、文部省は「事実まったく無根なり」と突っぱねたが、この質問からほどなくして中島は辞任した。中島は、すぐに哲学館に復職したが、このような経緯があったので、哲学館の検定試験に関するうわさは、ミュアヘッドの学説を出題した自分が原因ではないかと、中島は考えたという。なぜ、中島徳蔵が天皇の言葉である教育勅語の反対者とされたのか、それはつぎの二つ第三章 「哲学館事件」71    

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