た。八月には講師の中島徳蔵が文部省の修身教科書起草委員に任命された(中島はそのためにの後(一九〇一年一〇月)に、円了は内閣より高等教育会議議員を委嘱され、哲学館の社会的役割は高まった。そして一年後の一九〇二(明治三五)年四月、円了は「哲学館大学部開設予告」を発表して、つぎのように述べた。東京の私立学校として、本館の益友とも先輩とも言うべき学校は、三田の慶応義塾と早稲田の専門学校であるが、慶応義塾の方は明治二三年前より大学部を開設することになり、専門学校も昨年来準備に取りかかっているので、本館もおよばずながら、その尾に付して大学部開設に着手せざるを得ない場合となりました。この計画は、大学部の修業年限を五年とし、中学卒業以上の学力ある者に限り入学を許し、東洋大学科として倫理科(東洋の倫理としての儒学・神道を専攻し、同時に西洋の倫理を修める)と、教学科(仏教の教理を専攻し、同時に西洋の哲学を学び、東西の宗教を修める)の二科を設けるものであった。哲学館を辞職)。文部省の修身に関する委員会に、館主の円了と講師の中島が選ばれ、またそ66
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