定はこの三校のみで、翌一九〇〇年に慶応義塾、青山学院、一九〇一年に京都府立第一高等女学校、日本法律学校が認可を受けたが、明治時代に認可された数は一一校だけである)。このとき、ともに運動を進めた東京専門学校、国学院も同じく認可を受けた(初年度の認認定を受けた哲学館は、この年の九月から学科組織を改正した。高等師範学校専修科規則に基づき、学則を改め、予科一年・本科三年とし、本科は教育部、哲学部に分け、教育部には倫理科と漢文科をおいて、中等学校の教員養成をおもな目的とする課程とし、哲学部には仏教専修科を合併させた。一〇月に、教育部倫理科甲種卒業生の免許を受けるべき学科目を倫理、修身および教育科と改め、文部大臣に対して追願した。さらに一一月には、施設の拡充をはかり、講堂と図書館の新築工事に着工した。一九〇〇(明治三三)年四月、円了は文部省の修身教科書調査委員に選ばれた。五月には哲学館本科に徴兵猶予の特典が与えられ、講堂と図書館も完成して記念行事が挙行され大学設立と海外視察第三章 「哲学館事件」65
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