によって規定が改正され、ようやく教員免許の私学への制度的開放が実現された。しかし、文部省が私学への無試験検定を認可した条件には、官学との扱いに比べ不平等な面が多かった。卒業試験には文部省の検定委員や視学官が立ち会い、試験問題や答案を調べ、その問題や試験方法が不適当と認められたときには認可をしないという条件が付いていた。このようにみると、教員免許の取得に関する主流はあくまでも「官」の側であって、私学への開放はその端緒を開いたに過ぎなかった。事実、文部省は東京帝国大学および直轄校に、中等学校教員の臨時教員養成所を設置した。そのため、私学への教員免許の開放には、関係者の運動のほかに、当時の文部大臣が私学出身者であったことが左右したとも言われている。一八九九(明治三二)年五月二〇日、哲学館館主・井上円了は改めて「私立哲学館卒業生教員免許下付ニ付御願」を文部大臣に提出した。およそ一〇年がかりで、七月に教育部倫理科と漢文科の卒業生に対する、中等学校の修身科と漢文科の教員無試験検定校の許可を得た。64
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