かい境さの野 哲さとし(黄こう洋よう)や高嶋米峰など、一八九〇年代には卒業生のなかから「真仏教」や「新仏女学校をいう)の教員認定の特典を与えるように要請した。自分なりの「ものの見方・考え方」をもたせるという哲学館流の教育の結果、宗教関係では成田山新勝寺の中興の祖・石川照し勤き、チベットへ仏教の原典を求めた探検者の河口慧海や能の海み寛ゆか、さらに明治中期を代表する仏教界の歴史的運動となった「新仏教運動」の教」を求める新たな時代の人物が輩出された。一方、教育家(教員)の養成という課題は、円了が日本社会の改良を目指していたため、創立直後から重視したものであった。当時私立学校を卒業しても、教員免許を得るには、文部省による検定試験(文検)に合格しなければならなかったが、官立の学校は自動的に免許が与えられていた。そのため、一八九〇(明治二三)年三月、円了は文部大臣に対し「御願」という文書を提出して、哲学館の卒業者にも中等学校(尋常師範学校・尋常中学校・高等これはその前(一八八六(明治一九)年)に、官立の養成機関である高等師範学校への資格授与を定めた法律の、第六条の但し書きに「官立学校以外でも無試験検定による免許状の授与がありうる」との示唆にもとづいたものであり、また哲学館がすでに八八年度と八九年よう第三章 「哲学館事件」61 うたん
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