国家資格と教育(明治二〇年代から三〇年代)にかけて専門学校は発展しつつあった。哲学館が大学への階梯を上りはじめた一八九七(明治三〇)年前後に、日本の高等教育は「官高私低」のなかで変化の傾向がみられるようになった。一八九七年に官立の京都帝国大学が誕生して大学は二校となり、その下には哲学館のような専門学校が、一九〇一年の時点で、公立五校、私立四五校、合わせて五〇校を数えた。日本社会は日清戦争後に綿糸紡績業、製糸業などの軽工業部門が発展して、社会構造にも変化の兆しがあった。それが教育にも反映して、一八八〇年代終わりから一八九〇年代同時期、官学の帝国大学の卒業者が三四〇〇名であったのに対して、専門学校の卒業生は八・五倍に上っていた。私学は、創立からこの時期までの間に、学生数の激減や哲学館の風災や火災などのように、それぞれ存亡の危機を経験しながら、国家の保護や支援を受けずに、独自の方法でその問題を乗り越えて、当時の高学歴者の六割の卒業生を社会に送り出すまでに成長していた。58
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