が、京北中学校は各界で著名な人材をその後も輩出し、都内の有名私立中学校として発展していった。このようにして、哲学館が火災から再出発できたのは、勝海舟などからの支援があったためであるが、一八九九(明治三二)年一月一九日午後、海舟は狭心症を発して倒れ、静かに眠るように死去した。この年の七月、円了は第二回目の全国巡講に出発した。各地で社会教育としての講演をおこなったが、寄付金への御礼として、自ら揮毫するようになったのは、この頃からである。第二章 「日本主義の大学」55
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