新校地への移転棟と寄宿舎はすべて灰となり、図書や帳簿などの書類も失っていた。火の元となった中学校の校長はうろたえて騒いでいたが、円了は学生から「驚かれたでしょう」と聞かれても「必要なものは持ちだしました」ときわめて冷静であったという。これから先のことをすでに考えていたからであろう。円了は緊急対策として、寺を借りて仮教室と仮寄宿舎とし、一週間後には授業を再開した。そして、一八九七(明治三〇)年一月二九日に「学校移転願」を届け出た。移転先は、すでに購入していた小石川区原町の校地(現在の白山校地)であった。蓬莱町の校舎を活用しながら、新たな校地に大学の設立を計画していた哲学館にとって、火災による校舎の焼失は予期しない災難であった。だが、円了はこれを転機と考えた。まず、大学への過程とした専門科の設立を進めた。一八九七(明治三〇)年一月一〇日、漢学専修科を設置した。国学・漢学・仏教学の専修科のうち、漢学を優先したのは、すで第二章 「日本主義の大学」53
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