ショートヒストリー東洋大学
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これによって哲学館は、蓬莱町の校舎とは別に新たな校地を用意して、大学設立へと進むことになった。七四歳になった海舟はこの計画に賛成した。能書家として知られていた海舟は、哲学館への資金募集の先頭に立った。そのことを、娘の逸いはこう語っている。父が書いたものなどを差し上げると、それを哲学館に寄付などなすった方々へのお礼に送っていらしたようで、そんな風に父の書いたものが、井上さんの事業の足しになるならばと、父も一時は陰ながら筆奉公をいたしたものです。海舟の揮毫は寄付者へのお礼として用いられ、五円から一〇〇円までという寄付金額によって書幅の大きさが異なり、郵送方式でも受け付けられた。しかし、当時の海舟は七四歳と高齢であって、「二十八年八月以来臥病。ほとんど死期の来るごとし。我も世に在るを欲せず。十二月になって病治り気力回復」と、健康状態は決してよくはなかった。一八九六(明治二九)年三月、円了は巡講を従来の全国巡回から一県巡回の方法に転換して、長野県地方に出発した。このとき、円了は海舟の執事にあてた三月三〇日付けの書簡に、つぎのように書いている。50    つ

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