北陸である)。結局、この苦労の多い全国巡講によって、哲学館の存在はより多くの大衆に出発前か、あるいは帰京後に、かならず海舟と会っている。一八九二(明治二五)年一月二一日、円了は再び全国巡講(巡回講演)へと出発した。このようにして巡講を続ける館主の姿を、当時の学生の一人はこう語っている。先生はときどき「口をもって伝えないで、身をもって導く」という意味のことを語られた。学校の資金募集のために旅行がちな先生が、日にやけてやや旅やつれのした体を教壇に運ばれて、極めて飾り気のない旅行談をなさるとき、私たちは旅行談以外の強い感銘を与えられずにはいなかった。巡講は一度出発すれば二、三か月にわたり、一年三六五日の半数に達するというハードなもので、一八九〇年に四四日、一八九一年は一五三日、一八九二年は一五四日、一八九三年は三九日と、講演した日数だけで合わせて三九〇日、一年一か月におよんだ。この間に、三二県の三六市・三区・二三〇町村で講演した(残された県は主に関東・甲信越・まで知られ、最終的には三五〇九円九〇銭の寄付金が寄せられ、危機を突破した。なお、円了の代表的な著作の一つである『妖怪学講義』(哲学館講義録第七学年度)は、こう48
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