されているが、円了も哲学館への恩賜金の仲介を海舟に依頼した。おそらく、それによって哲学館への社会的な評価を高めて、新聞・雑誌に広告を出して哲学館への資金を募集しようという計画であったと考えられるが、「それはむずかしい」というのが海舟の返事であった。九月になって、海舟は円了を赤坂の私邸に呼んだ。そして一〇月一六日に、円了はふたたび海舟をおとずれている。この日のことは「海舟日記」に「井上円了、哲学館寄付の事」と、とくにこの日だけ事項が記されているのは、つぎのような計画を、円了が伝えたことを意味していた。円了の計画とは、全国各地の依頼に応じて学術・教育・宗教に関する講義・演説をするため、一〇月下旬から東海道筋、翌年一月から四国九州地方、三月から中国地方、五月から北陸筋、七月から奥羽・北海道へと全国を巡回しようというものである。この講演会のときに、あわせて哲学館の大学設立のための専門科開設の資金を、広く社会的大衆的に募金しようという計画であった。それまでの有志からの寄付金ではなく国民的規模の寄付金によって学校を発展させるという、まったく新しい方法に、海舟も賛同した。海舟は円了第二章 「日本主義の大学」45
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