の三学科を設置した。私学としての新たな歴史の第一歩であった。井上円了も九月に、哲学館を文系私立大学へ発展させる具体的な構想を明らかにした。この「哲学館ニ専門科ヲ設クル趣意」によれば、この構想は従来の普通科一年、高等科二年を合わせて三か年の普通科とし、その上に国学科・漢学科・仏(教)学科・洋学科の四科の専門科を設置して、五年間の課程とするものであった。専門科の四学科にはそれぞれ正科と助科をおき、正科で日本の学問を、助科で西洋の学問を学ぶように計画した。洋学科は、日本固有の一学を修学した上で、さらに西洋の哲学・文学・史学を専攻する学生のためのものであった。そして、この構想では「資金一〇万円」を募集し、寄付金が五万円に達したとき、まず専門科の一科(二か年)を開設し、続いて順次に全科を設置する。また寄付金が一〇万円以上集まった場合には、各専門科にそれぞれの専攻を別に設けるというものであった。しかし、この構想を発表したころ、哲学館は大きな危機に陥っていた。危機の原因はあの風災であった。もともと哲学館は、宗教教団などの団体や政財界の有力者の支援に頼らず、「無資本で」個人の寄付を基本として設立され、二八〇名の賛成者、七八〇円の寄付第二章 「日本主義の大学」43
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