財政危機のちに不偏不党の立場から、自ら正当と認める道理を案出する。学生諸君の研究はこうでなければならない。加藤が述べたのは、哲学館の「自由討究」の精神であるが、こうした方針で教育され、三年間の課程を終えて第一回の卒業生が出たのは、一八九〇(明治二三)年七月一五日のことである。はじめての得業生(卒業生のこと)は二四名であった。入学生の多さに比べて卒業生が少ないのは、いずれの私学も同じ状況であり、勉学の志があっても、経済などの条件が整わず、中途で放棄せざるをえない学生も多かったのが、当時の教育環境であった。哲学館が第一回目の卒業生を出したこの一八九〇(明治二三)年一月に、私立ではじめて大学の名称をつけた慶応義塾大学部が誕生した。すでに述べたように、当時の制度では帝国大学のみが唯一の大学であったため、慶応義塾の場合は「大学部」と変則的なものになっているが、そこに文学・法学・理財(経済)42
元のページ ../index.html#44