「風災」寺田は円了と同じ真宗大谷派の僧侶で、東本願寺の留学生として慶応義塾に学び、福沢諭吉の勧めで真浄寺に入寺した。難解な仏教を大衆にいかに理解させるかを研究し、宗派を超えた活動をおこなっていた。寺田はことあるごとに哲学館のために寺を開放して、協力を惜しまなかったという。初期の哲学館の事業は、このような三恩人などによって支えられていた。井上円了は新校舎の建設とともに、学科目を東洋部、西洋部にわけて、東洋部を主とし、西洋部を従とする教育改革をおこなうため、新学年を待った。だが、九月一一日に日本全国に多数の死者を出すほどの大型台風が来襲して、九分どおりまで完成していた哲学館の新校舎は完全に倒壊した。この日、円了は募金と仏教公認教運動のために京都に滞在していた。甚大な被害をこうむった哲学館から、その報告の電信が館主にあてて発せられても、暴風雨のために途中でとどこおり、くわしい内容を知ることさえできなかった。急いで上京しようと思っても、第二章 「日本主義の大学」39
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