婚したが、円了が一八八六年に加賀藩・前田家の御典医の養孫・吉田敬と結ばれたとき、この目賀田夫妻が仲人をつとめるという縁があった。一八八九(明治二二)年九月四日、「哲学館将来の目的」を読んだ海舟が、円了に一度会ってみたいと言ったことから、二人の出会いは実現した。円了は赤坂・氷川町の海舟の私邸をおとずれている。このとき、海舟は六七歳、円了は三一歳で、二人の間には三六歳の年齢差があったが、円了は海舟に対して、欧米視察のことや哲学館の計画を説明した。海舟は、自らの歴史的な経験を語りながら助言した。はじめての会談後に、海舟は「あんなに若い人であったのか」と言いながら、その計画に感心していたという。円了にとって海舟との出会いはとくに重要な意味をもった。円了は「海舟翁は余が精神上の師なり」として、その助言を大切にした。円了は勝海舟、寺田福寿、加藤弘之の三人を、のちに「哲学館の三恩人」と呼んだ。このうちの寺田福寿は駒込の真浄寺の住職で、新校舎の土地は寺田の斡旋によって借りることができたものであった。38
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