ショートヒストリー東洋大学
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勝海舟との出会い文京区向丘)で、そこに講堂(教室)一棟、寄宿舎一棟、ならびに館主の自宅も新築することる。そして、知力と人徳を兼ね備えた「教育家」「宗教家」「哲学家」を養成し、学問を実践・応用して「国民全体の改良」に取り組み、日本を文明社会へと進展させる。円了はこのような哲学館の将来構想をまとめながら、帰国直後に校舎の新築を決断し、一八八九年八月一日から建設に着工した。新校舎の場所は本郷区駒込蓬莱町二八番地(現・にしたのであった。文系私立大学へという哲学館の将来構想が発表されてから、新校舎の建設費としての寄付金が募集された。個人では、山県有朋、後藤象次郎、副島種臣、西周、加藤弘之、何礼之、中村正直、外山正一などがその趣旨に賛成して資金を寄付した。仏教界では東本願寺と西本願寺がそれぞれ一〇〇〇円を寄付した。幕末の代表的な政治家として知られる勝海か舟しうも、賛成者の一人であった。井上円了と海舟との縁をつないだのは、海舟の三女逸いである。逸は大蔵官僚となった目賀田種太郎と結 つ いゆ 第二章 「日本主義の大学」37

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