ショートヒストリー東洋大学
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創出の時期を迎えていた。高等教育における帝国大学や多くの私学の誕生も、その表れであった。当時の最大の関心事の一つは、欧米列強の圧力に屈せず、平等な国際関係を築いて、日本の独立を守ることにあったが、政府は欧米先進諸国との不平等条約の改正、すなわち治外法権の撤廃や関税自主権の回復などを目指して、鹿鳴館に象徴されるような極端な西洋崇拝の外交政策をとっていた。その状況について、円了はこう語っている。明治維新以後、日本固有の学問はもちろん、衣食住日常のことに至るまですべて西洋をとらねばならぬようになってきて、一も西洋、二も西洋、三も西洋というありさまであった。それで第一に仏教を排し、ついで漢学を排し、味噌や豆腐に至るまで排斥される時代があった。これは社会の潮流が極端から極端へ走ったためである。西洋崇拝の必然の結果として、宗教も日本従来のものを捨てて、西洋におこなわれているものをとらねばならぬという世論をみるに至った。「欧化主義」と呼ばれたこのような風潮に反対して、新たな思想運動が提起された。この運動団体を「政教社」という。32  

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